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伴天連が目撃した「本能寺の変」

 「本能寺の変」の原因は本当は、宗教戦争の結末であったのではないのでしょうか。
 この時代のスペインは、イエズス会を利用して中国を侵略しようと考えていました。
中国を攻める足掛かりとして、まずは日本を拠点とし日本で増やした信徒を兵士として使い、中国に攻め入る計画だったのでは無いかと考えられるのです。
イエズス会は織田信長をスパイにして、日本国内を宗教戦争に巻き込み、その結果、日本を傀儡支配しようと試みたのではないのでしょうか。
しかしながら、織田信長は比叡山や石山本願寺を弾圧した所までは、イエズス会思い通りだったのでしたが、その後はイエズス会の計画を逆利用し、中国侵略を自らの手で実行しようと考えていたようだからなのです。
本能寺の変を起こしたとされる明智光秀は、元々朝廷や足利将軍家のスパイでもあり、イエズス会のスパイでもあったのかもしれません。娘の細川ガラシャもおそらくイエスズ会の息がかかっていたものと推測されるからなのです。また、島津藩をはじめ四国の長宗我部氏や長州藩の毛利氏及び近江の秦氏勢力は、比叡山を焼かれた仇を取る為にも、織田信長の暗殺を企てていたに違いないからなのです。
ですから、「本能寺の変」の本当の黒幕は比叡山勢力の秦氏と後のイルミナティとなる西欧勢力であり、彼らの日本侵略はここから始まり、その後は、明治維新、日清日露戦争、第二次世界大戦へと続いていくのでした。
 宣教師フロイス著作の「日本史」によると、フロイス自身は九州に居て本能寺の変の現場には居合わせていなかったのですが、本能寺の変の様子を克明に調査し本国に報告していたのでした。
本能寺の変当日の朝、南蛮寺では早朝のミサの準備をしていました。すると本能寺の門前での騒ぎに気付いたのでした。
「単なる喧嘩ではない。明智が信長の敵となり信長を包囲した」と第一報が上がり、やがて「内部には謀叛を疑う気配はなく若い武士と茶坊主と女たち以外はなく、抵抗するものはいなかった」と詳細な中身が伝わりました。ところが「手と顔を洗い終えて手拭いで身体をふいている信長に矢が放たれました。
信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍(ながやり)である薙刀(なぎなた)という武器を手にしてしばらく戦いましたが、腕に銃弾を受けると自らの部屋に入り戸を閉じそこで切腹した」と報告されているのです。
 本能寺の変については未だに謎も多いのですが、明智光秀軍の単独犯による謀反だとは、とても信じがたい話なのです。
それは少なくとも、南蛮寺からの目撃者が居た事実からも明らかなのです。
また、イエズス会から織田信長に家来として贈られたモザンビーク人の弥助を明智光秀は斬首しなかったことがとても不思議なのです。これこそ明智光秀そのものが、朝廷や足利家のスパイであり、織田信長のスパイだった理由となるのかもしれません。光秀は、もちろんイエズス会のスパイも兼ねていたのでしょう。
 織田信長のデスマスクとされる遺品が、愛知県の「西山自然歴史博物館」に保管されています。所持している西山氏は、織田信長の孫にあたる秀信の子孫なのだそうです。
 信長は自ら首を落として弥助に持たせ、弥助は南蛮寺で前田玄以に首を渡し、「岐阜の崇福寺へ持って行き、主君を残せ」とデスマスクを作る指示を出したのだと言い伝えられているようなのです。
もしくは歴史家の八切止夫氏が述べているように、弥助こそがイエズス会のスパイであり、爆弾を使って織田信長を殺したのかもしれないと言うのです。
また立花京子氏は「信長と十字架」の中で、信長はポルトガル商人やイエスズ会などの南欧勢力によって抹殺されたと書いています。私もこの説には賛成するのです。
そしてイエスズ会が信長を狙った決定的な理由は、信長が火薬や多くの物資の輸送基地であるマカオを占領し、そこを基点として中国侵略を狙ったからだとの説があるのです。
 それらを証明する記録の大事な部分が焼失し残っていないのが大変残念なのですが、情報を逐次本国に報告していた宣教師フロイスは、まさにスパイそのものだったに違いないのです。
 織田信長は、延暦寺の焼き討ち、石山本願寺の鎮圧はしましたが、キリスト教の布教は許していたのですからそんな筈は無いと反論する方々もあろうかと思うのですが、イエズス会の目的は仏教勢力を倒し、日本中に内乱を広める事だったのだと考えられるのです。
明智光秀を唆し、マッチポンプのクーデターを起こし、日本中に内乱が広がり、日本の防衛力を著しく弱体化させ、キリスト教信者を広げた上で日本を植民地にしようとしたに違いないのです。それらの手口は日本以外のアジア諸国が、諸外国からどのように植民地化されたかの経緯を検証すれば、明らかなのです。
 個人的な分析では、黒田官兵衛もキリシタンだったのですから、千利休や堺の商人、教会等の何らかのルートからの情報で「本能寺の変」を想定していたに違いないのです。
そのように考えると、なぜ毛利氏と即日に和睦が成立して、すぐさま中国大返しが出来たのかの説明がつくのです。明智光秀の天下取りを阻止する事に成功した黒田官兵衛と豊臣秀吉でありましたが、ひょっとすると山崎の戦いも演出であり、明智光秀はやがて天海となってその後の江戸での街づくりに貢献していたのかもしれません。
 その後の豊臣秀吉は、宣教師達の怪しげな動きを察知し、すぐさま「伴天連追放令」を下したのでした。
黒田官兵衛も予想だにしなかった、豊臣秀吉の伴天連追放令によって日本は、南欧勢力による占領を食い止め、彼らを追い払ってしまったのでした。
 結果的に、日本は秀吉のお陰で外国の植民地となる事は無く、救われたと言っても良いのではないのでしょうか。
歴史を遡ると、イエズス会のフランシスコ・ザビエルは、1549年鹿児島(藤原近衛氏の拠点)へやって来て布教を始めたのでしたが、1543年、種子島への鉄砲伝来も嵐による偶然の出来事とは思えないのです。
当時の宣教師たちはカステラやコンペイトウ、ビスケットといった砂糖や鶏卵を豊富に使用した「南蛮菓子」を日本人に配ることによって、入信を勧めたそうなのです。
一方でキリシタン大名の領地九州では、キリシタンに改宗しない異教徒(仏教徒ら)を弾圧し、奴隷狩りし、南蛮から生糸や硝石や香辛料などの商品を購入するのに、その対価として奴隷として売り飛ばしていたのでした。その数は50万人とも言われ、まさに布教の本当の目的が略奪であった事実が明らかとなったのでした。
その後の秀吉天下の時代になると、スパイ出身の秀吉は、イエスズ会の魂胆に気付き、海外への人身売買を禁止し、イエズス会に寄進譲渡していた長崎、茂木、大村氏の領地を取り上げ、すべて直轄領としたのでした。まさにこの迅速な対応こそが日本の植民地化を救ったのでした。
日本の学界では、学会で認められて無い事例、科学的証拠をあげられない事例は否とされてしまいます。
言わば証拠主義、学会権威主義で成り立っているのです。
しかしながら現実の世の中では、警察や裁判において「状況証拠」というものが判断の材料となるのです。たとえ本人に直結する証拠が無くとも、周りの事実関係から間接的な証拠を取り出し、犯人を炙り出す手法があるのです。
ですから事件が起きた後に、実際に利益を上げている人物が犯人であったことは歴史が証明してくれるのです。その為に、誰が犯人であったかを徹底的に「状況証拠」をあげて検証をして行くことが重要になるのです。
また、何事にも仮説があって初めて研究の進歩があるのですから、結論に拘らずにさまざまな視点で物事を分析する事が望まれるのです。
「ヴィジョン」を通して歴史的事件を見れば、さまざまな真実が浮き彫りになるのです。
また決定的な結論を出すには、現代ではDNA鑑定と言う正確な情報を分析する方法が活用出来るようになりましたので、これが大きな手助けとなるのです。
 信長が光秀に打たれた結果、ホットしたり、有利になった人物は大勢いました。まずは朝廷、公家衆、足利将軍家、徳川家康、豊臣秀吉(黒田官兵衛)、長宗我部家、島津家、毛利家、千利休等あげたら切がないのです。
 ひとつだけ言えるのは、明智光秀は決して単独犯では無く、これらの人々のさまざまな勢力の期待を一人で背負って謀反を起こさざるを得なかったのだと考えます。言わば歴史の必然であったという事なのです。
 そもそも宣教師の来日は植民地主義の尖兵で有ったことが、後の記録や諸外国での状況的証拠、歴史を客観的に分析した結果から明らかなのです。
まず宣教師を送り込み原住民を改宗させ、改宗者が十分揃ったところで軍隊を送り、改宗者が現地政権に反抗するように仕向けるというのが占領の常套手段だったからなのです。
キリスト教宣教師は、植民地支配の尖兵としてスパイ活動を行なっていたと考えると実に辻褄が合うのです。
 秀吉や家康が歴史に名を残す名将軍であった所以は、彼ら宣教師が植民地支配の尖兵であることを、しっかりと見抜き対処する事が出来ていたからなのです。そのように分析した上で、「本能寺の変」を検証してみると、日本が占領の直前まで追い込まれていた、危うい事実に改めて気が付くのです。

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