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「象は静かに座っている」

 とにかくだれも笑わない。現れるひとたちが、みな一様に、なにかにイライラしていて、とても不機嫌だ。
 戸棚にあった割引カードがない。トイレが水びたしだ。おばあちゃんからもらったお金がなくなっている。携帯電話が盗まれた。愛していた犬はかみ殺された。満州里への電車は運休だし、視界にはいってくるものはゴミとくそったればかりだ。
 この徹底した不機嫌と怒りとイライラが、少しずつ、まるで澱のようにたまっていく。こんなに人が笑わない映画を観たことが、かつてあっただろうかと思ったとき、スクリーンから、ネットの下司な画像を操作しながら笑うチンピラの声が響いた。
 またしても続く不機嫌、怒りの衝動、無為の表情ののちに、ふたたび笑いがやってくる。友人の自殺の現場にいたと告白するとき、彼は笑っていた。泣きながら、「おばさん、俺、そこにいたんだよ。」と笑っていた。自暴自棄にうつむいた少年もおのれの絶望的な境遇を笑いながら話す。
 笑い、嗤い、自嘲、嘲笑、ほくそ笑み、愛想笑い、あざ笑い。
そうだ、笑いにはいろんな笑いがあるのだと、つよく意識する。

 「象は静かに座っている」では、だれひとりとして、楽しく笑うことはない。あたかも中国という大国そのものが、そしてそこに暮らすひとびとが、どこかこの不機嫌を身体に埋め込んでいるかのような印象を持つ。
 そういえば、「存在のない子供たち」も笑わない映画だったなと思い出す。しかしそれは、ラストカットのために周到に取り置かれたギフトだった。また「ジョーカー」も笑いにまつわる映画だった。笑いとはなんだと、そう問いかけていた。
 こうしてみると、中国だけではなく、世界そのものが不機嫌に陥っているのかもしれないとさえ思う。もはや笑いは、とことんまで追いつめられ、窮状に身を縛られたものにのみ許された最後の感情表現なのかもしれない。
 トンネルの奥で、自爆ベストに手をかけたバグダディも、その瞬間、小さく笑ったのだろうか。

 コミュニケーションはどこまでも遠く、霞んでいる。ほんの数歩先のひとでさえフォーカスが合わない。ひととひとは、ドアやガラスや格子で遮られ、その両側でののしり合う。
 これほどまでの映像表現に出会うことは、そう滅多にあることではない。
圧巻の四時間。瞬くことすら許さない映画体験。
 フー・ボー、生き返れ。そしてこれからも、資本主義の極北に住む人類の、ことばにならない不機嫌を告発してくれ。せつないままに、ぼくらはきみの新作を待っている。

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