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「放浪記」

 キャメラがある。俳優たちがその前にたち、監督の「よーい、スタート!」の声とともにフィルムが回り、演技がはじまる。
 そのことで「何か」が写ると思うのは大きな間違いである。たしかに「何か」はフィルムに露光されるだろう。しかしそれは人が映画的と呼ぶ「何か」とはまったく無関係である。
 映画的な「何か」とは、はからずも露光されてしまった奇跡の瞬間のことにほかならない。そんな奇跡の瞬間をものにできる知性と体力と運をもちあわせた作家は、百年をこえる映画史のなかでもそうそういるものではない。

 なぜ成瀬巳喜男の映画はことごとくおもしろいのか、という問いはそのまま、なぜ彼がこれほどまでに多くの「奇跡の瞬間」をフィルムに焼き付けることに成功したのかということを意味している。それは永遠のなぞであって、あえていうなら映画の女神さまが成瀬巳喜男という男に惚れたということだ。

 高峰秀子は成瀬の映画のなかでよく舌をだす。実にいろいろな局面で、時に意地悪く、時にはにかみながら、時にすべてを無化するかのように、舌をだす。高峰秀子の豊潤で表現豊かな舌にはいつも圧倒されてしまう。

 「放浪記」のなか、高峰扮する芙美子は今川焼きを買って帰ってくる。連れ合いにもすすめ、半分食べたところで、不意に、本当に不意に、高峰の舌がにゅっとのびてあんこをすくい取る。
 その美しさに戦慄が走る。ほかのどの場面の舌ともちがう、ある妖艶さを帯びた舌。その舌は意図されて写されたものではない。美しいものは意図された瞬間に失われる。とらえようとした瞬間にすり抜けてしまう。
 成瀬巳喜男の映画に忍び込んだ数多の「美しさ」は、意図せんとする浅薄な知性からも、とらえんとする傲慢な欲からも自由であることの証左である。

 「放浪記」は、あたかも一枚の薄っぺらな原稿用紙が、風に吹かれ、荒れ野を舞いわたるかのような物語展開をもっている。
 木賃宿で原稿書きをする芙美子は、そこでばらばらになった原稿を束ねてくれる売れない画家と出会う。原稿のすみは、彼の画材道具であるキリで穴をあけられ、こよりを使って、彼の手で首尾よく綴じられる。その直後、ひょんなことで警察に連行される芙美子。売れない画家の手元に原稿があずけられる。
 それから何十年もたち、当代一の人気作家となり、大きな家に住まうようになった芙美子が、連日の徹夜仕事についうたたねをしてしまう。その背後から、やはり不意に、年を重ねた、あの時の売れない画家があらわれる。彼は妻に毛布をかけようと押入れの戸をあける。
 その音に気がついた芙美子と夫は何気ない言葉をいくつか交わし、芙美子は午睡へ。夫は静かに障子を閉める。
 その時、あたかも一冊の本を綴じるかのように、物語が、そして映画そのものが、かつての売れない画家によって束ねられる瞬間に立ち会うこととなる。

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