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「牡蠣工場」

 なかなか劇場に足が向かないのには、自分はいま「籠りの時期」にあるということだと思う。これはわりと小さい頃から自覚していて、ものすごく外で遊びたい時期が続くと、家から出たくない時期がやってきて、それがほぼ一定の周期で交互に繰り返される。これをいいように考えて、実際に体験したり、自分の目で見る時間と、それを反芻し、もう一度捉え直す時間ではなかろうかと、ひとりで勝手に納得している。
 もちろんみながこういう、いわば意識の出し入れを日々やっていて、それをオンオフといったり、ハレとケなどと呼んだりするのだろう。その日々の精神の営みのほかに、大きく、たとえば一年とか半年とかいうスパンで、気持ちの基本的なありようが入れ変わっていく。これはいいかたを変えれば「躁鬱」みたいなものか。まあ、そのごくごく軽いものくらいに思っている。

 そんな「籠りの時期」にあって、それに見合った映画は、豪華なキャストに膨大な予算をつぎ込んだ、テンションの張り詰めたハリウッド製では当然ない。シネコンも、キャラメルのあまい匂いとケバケバしいポップがやかましいロビーを通らなければならないと思うだけで、どうにもたまらない。そっと隠れるように、落ち着いた気持ちでシートにつきたい。そんなときはイメージフォーラムがいい。
 かかる映画は想田和弘監督の「牡蠣工場」。「かきこうじょう」ではなく「かきこうば」とある。観てみると「工場」が「こうば」であることに納得する。「こうじょう」化するこの国の進みゆきにあって、その片隅で、いまだひっそりと営む「こうば」の姿を、想田さんのカメラは観察する。

 岡山県の牛窓、養殖された牡蠣が水揚げされ、むかれ、市場へと送られる。そんな一次産業の「労働の現場」が、淡々と映される。牡蠣の殻をむく作業、おばちゃんたちの笑い声、波の音、工場(こうば)の周りで遊ぶ子供たち、原発事故から自主避難してきたひと、中国人労働者、壁に貼られた「9日、中国くる」の文字、堤防から落ちたおじさん、シロと呼ばれ、でも実はミルクという名の猫、通じないことば、中国人の悪口をいう業者さん、港町を見下ろす美しい風景。
 こうばに到着したばかりの中国人の笑顔がふと消えて、垣間見えたその困惑と不安の表情を、カメラは見逃さなかった。中国人を刺激するから撮影をやめてくれといい出す工場の社長。その背中で語る姿が印象的だった。そうだ、広島では雇い入れた中国人が殺人事件まで起こしている。想田さん戸惑いも一緒に映る。

 いまの「籠りの時期」にあるぼくにとって、「牡蠣工場」は、一番観たかったものだったかもしれない。そのやさしい語り口のなかに、絶望的な「いま」を、共に考えるためのヒントがたくさんあるように思った。傾けるべき耳の意識を、いったいどこにフォーカスするべきか、ひとつ確信を深めた映画であった。
 

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