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国会前のことば

 毎週金曜日の夜は、国会前で安保法制に抗議する集会が開かれています。そこで一番いいのは、学生たちや国会議員、大学の先生をはじめいろんなかたのスピーチが、生で聞けることです。ぼくも毎回行けるわけではありませんし、たとえ行ったとしても、あまりに多くの人出と、それを規制する警察の滅茶苦茶な誘導のせいで、国会前のあの歩道の一角に到達するのは、なかなかに困難です。ましてや地方に住んでいるかたもいるわけですから、その生のスピーチを聞けるひとはごく限られているのかもしれません。
 幸い、岩上安身さんをはじめ独立系のジャーナリストがウェブで、その様子をアップしてくれて、そのスピーチのいくつかを、こうしてパソコンなどで見ることができます。

 昨日の早稲田大学の水島朝穂先生のスピーチも素晴らしかったです。国会前の歩道では、これほどに、ちゃんとした言葉、真面目な、生きた言葉と出会えるのがなによりうれしいです。いままでも身体の底からでてくるたくさんの言葉の束に、幾度も胸を熱くしました。ぼくはそこで発せられた数々の言葉に、希望をふくらませていくようになりました。

 ところが、その歩道を渡ったすぐそこの国会議事堂の中では、いったいどんな言葉が話され、どんな議論が展開されているというのでしょうか。国会中継を見ていると、もはや言葉の体を成していない、この世のものとも思えないひどい状況になっていることもしばしばあります。
 ぼくとしてはちゃんと聞こうとしているつもりなのですが、正直なところ、首相をはじめ、閣僚の答弁が、なにを言おうとしているのかがよくわからないのです。果たしてこれは日本語なのだろうかと、時に訝しく思うことさえあります。
 自分の理解力を疑ったりもしてみますが、でも表にでて、歩道でスピーチするかたがたの言葉は、すんなり腹のなかにはいってくるのです。ぼく自身の思うところや考えていることと、近いからそうなのだというかもしれませんが、ほんとうにニュートラルな気持ちになって、内容がどうとかではなく、どちらの言葉が、「言葉として」ちゃんと発せられているかという、その一点で耳を傾けてみるのです。
 この安保法制をめぐって繰り広げられる言説において、議論の達人である国会議員によって発せられる言葉よりも、ひとりの学生の口からでてくる、つたないけれど懸命な言葉に、ずっとリアルなものを、ぼく自身は感じています。

 安倍政権の言葉を信じるか、身体を張って抗議する学生や大学関係者の言葉を信じるか。アメリカ合衆国、経団連、高級官僚に操られ、自分自身すらなにを話しているかもわからない、閣僚の国会答弁の言葉と、ひとりの民としてやまれずに、時間と労力を費やして、声を限りに発している言葉と、どっちを信じられるだろうか。その両方にもう一度耳を傾けてほしいと思っています。

 情報はあふれ、デマも操作も、陰謀も中傷も、事実も嘘も、起こったことも起こらなかったことも、みんなごちゃ混ぜになってやってきます。そのいちいちの精査も大切かと思いますが、一方で、動物的なといいますか、自分自身の「カン」のようなものを働かせるのも、有効なのではないかと思います。
 スマホやパソコンから離れ、できることならばその場にいってみて、そして目を閉じ、耳をすます。音の震えを感じながら、だれの言葉がより自分の身体に響くだろうか、だれの言葉に気持ちが動くだろうか。全身の毛穴を開いて、自分自身に問いかけてみます。

 だれがちゃんとした「言葉」を話しているか。自分の動物的な「カン」を信じて、こちらだと思うほうに向いたなら、ゆっくり目をあけて、目の前にある顔をしっかりと見てみます。ちゃんとした、「ひとの顔」を見つけたなら、大丈夫。今度はぼくたちが言葉を発する番です。
 意見が違ってあたりまえ。身近なひとと一緒に語り合い、そして考えたいと思います。ぼくにとって、あなたにとって、みんなにとって、こどもたちにとって、なにがほんとうに大切なのかを、一生懸命になって考えて、ぼくは自分の言葉を使って、目の前にいるひとと話がしたいです。

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