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「タクシー運転手」

 1980年5月、ぼくはなにをしていたのだろう。小雨の降る新宿の路地を歩きながら思った。
 大学に落ちて、浪人しながら、がんばって勉強なんかしていたはずだ。そんななかでも、さきに上智にはいった友人が、四谷の教室でやる庄司薫の講演会に誘ってくれて、いそいそと出かけて行った。あれがちょうど5月くらいだったように記憶している。
 滅多に人前にでない庄司薫が、どうしてこの日、上智大学の小さな教室に現れたのか、どんな経緯があったのかは、わからない。ぼくは前の方の席に座って、あたかも宇宙人を見るように、目を大きく開いていた。
 庄司薫は、訥々と「不老不死」の研究をしているという話をした。そのために大っ嫌いな飛行機に乗ってメキシコまで行ったという、どこか荒唐無稽な話だった。
 窓の外は新緑がキラキラと光っていた。あれはやっぱり1980年の5月だったのだろう。ぼくは大好きな作家を間近に見られて、「不老不死」の話をきけて、このうえなく幸せだった。将来への漠然とした不安はあったものの、のんびりと平和な日々だった。
 もちろんすぐ隣の韓国でなにが起きていたかなど、知るよしもなかった。よしんば光州市でのたいへんな事態を正確に知り得ていたとしても、それはどこか遠くはるかな場所の出来事くらいにしか感じなかっただろう。
 そしてそれ以降も、こんにちにいたるまで、いったいぼくはなにを知ってきたというのかと、なかば憤りながら問わざるをえない。それは韓国のことだけでなく、あらゆることのひとつひとつについていえること。いかに自分が無知であるか、知ろうとしてこなかったか、身体で考えてこなかったかと、あきれる。

 映画の力というのは、ものすごい。あの新緑のうららかな5月から長い歳月を経た昨日、ばくはタクシーに乗って、1980年の光州市に行ってきた。
 そしてその驚きは、なにも知らずにドイツ人記者とともに、あの街へはいったタクシー運転手の驚きと、なんら変わることがなかった。目のまえで起こっている惨劇に、下唇が細かくふるえ、まばたきすることさえ忘れるほどに、全身で感じた。
 映画の力というは、はかりしれない。それを製作し、演じ、観ることによって、歴史はなんどでも息を吹きかえす。あたかもそれが、いま起こっているかのように。大きなスクリーンは四方をとりかこみ、音はいたるところから襲いかかってくる。1980年5月、すごく近くて、しかしはるか遠い国だった韓国の街に、いまこうして立つことができた。

 「タクシー運転手」の映画力は、とてつもない。それは事実をもとに構成された娯楽映画だ。「タクシー運転手」には、エンターテイメントとしての要素があますところなくはいっている。そしてエンターテイメントであることは、事実や歴史を、ゆがめたり、おとしめたりすることにはならないのだと、はっきりと証明してみせている。その映画力に度肝を抜かれる。
 寺山修司にかぶれてきたせいで、5月には特別な想いがある。いつも新鮮な気持ちでむかえ、過ごす。そんな新緑の季節に、いい映画を観ることができたことを幸せに思う。

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