戦争は知らない
高校の時の友人とフォークユニットを組んで、月に一度、武蔵小山の小さいお店でライブなどをしている。オリジナルが中心ではあるが、そればかりだとなんなので、カバー曲もいくつかやるようにしている。
その多くは昭和のフォークソングだ。だいたい1970年初頭を念頭において選曲している。というのもその頃は小学生で、流行ってもいたせいか、一番フォークソングを聴いた時期だからだ。
学生運動があったり、まだ今よりも言葉や歌に真剣味があった時代で、その当時の世相などを思い起こしながら、ある意味で、歴史の復習のような遡行と追想をしてもいる。
先日観た映画「チリの闘い」もそうだが、70年代初頭は、今にして思うとずいぶんな歴史の激動期だったわけだが、遊んでばかりいた小学生にはそんなことは知るよしもなかった。
昨夜のライブでは、フォーククルセダーズの「戦争は知らない」を演奏した。68年、作詞は寺山修司である。寺山修司にはたいへんな影響を受けたこともあって、寺山のことばをどうしてもやってみたかったというのが動機だ。
「野に咲く花の 名前は知らない けれども野に咲く 花が好き」ではじまるくだりは寺山修司らしさが溢れている。歌い進めていくと、こんなことばがでてきて、はっとする。
「いくさで死んだ 悲しいとうさん 私はあなたの娘です」
いくさとはもちろん太平洋戦争を指す。戦死した父親を「悲しいとうさん」と思う憐憫が、この歌の優れた部分ではないかと思う。戦死を決して勇ましさとないまぜにした美しいものとしていない。少なくともその娘ならそうであって欲しいと願うのが普通ではないかと思うのだが、あえて悲しいと思う叙情性に惹かれる。
さらにこんなくだりもある。
「父を思えば ああ荒野に 赤い夕陽が 夕陽が沈む」
南方か、中国戦線か、いずれ父の死骸は捨てゆかれ、腐乱して、骨となり、のちに草むしていったかもしれない。荒野という響きに「いくさ」で死んでいくものの悲しみがある。
荒野と灰燼。皇軍の戦死者は昭和19年と20年に突出している。その多くが戦病死、餓死だという。いくさ叶わぬままに逝ったかもしれぬ「悲しいとうさん」。寺山修司にも父はいなかった。
歌のなかで、その歴史を引き継いで母となるわたしは、そのこどもたちに「悲しいとうさん」の話をしたのだろうか。
ぼくらはそれを聞き、引き継ぐことを、無意識のうちに避けてきたのかもしれない。いつもやさしかった叔父が、ある日一度だけ、中国でたくさんの人を殺した話をした。酔っていたからのか、それをどうしても伝えたかったのか、それはわからないけれど、そのようなことはあるものだとわかっていながら、たいへんなショックを受けたのを覚えている。
ぼくらが小学生のときは、周りに軍人として戦争を経験したひとがたくさんいた。何気ない日常のなかでも、このおじさんたちもあるいはと、ギラギラした気持ちを抱いたこともままあったように思う。
聞きたくはなかった話も、55歳になったいま、ふさいでいた両の手を離してみようと思うようになった。歴史から学ぶことへ、もう一度身体を向けてみないことには、これからが見えてこないという危惧もある。
まずはごくごく身のまわりから。なんということのないフォークソングに耳を傾け、自らの来し方を思う。
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