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「ロスト・イン・トランスレーション」

 仕事がひまになったので、平日の夕方、映画を観に渋谷まででかけた。
二子玉川育ちのぼくには、渋谷はもっとも親しみのある繁華街だ。
 改札をでてすぐ、センター街に抜けるほんのわずかな道のりでも、ほんとうにたくさんの人の波に圧倒され、人いきれにめまいのようなものさえ感じる。

 小学生のころから足を運んでいた渋谷の街と今のそれとでは、大きく変わったようでいて、大枠としての場所の地形みたいなものは、さほど変化がない気がする。
 宮益坂、東急本店通り、公園通り、道玄坂、桜丘、原宿に抜ける消防署前の道、金王坂、明治通り、松涛に円山町。通りや町内が放っている雰囲気や個性といった骨格はまだまだ健在で、ふと時をスリップする瞬間があったりする。

 そんな「ロスト」する感覚と同時に、最近では、どういったらいいか、自分がまったくのよそものとして「ロスト」することがある。
 以前にも経験した事のあるこの感覚がなんだかわからなかったが、ああこれは自分がバックパッカーとして、海外の都市をさまよっている時の感覚だと、最近になって合点がいった。

 じぶんにとって一番なじみがある繁華街が、まるで外国の都市のように感じてしまう。街の骨格は変わらなくても、そこに集まる人たちに、リアリティーを感じないとでもいえばいいのか、平日の夕方、すれ違う人たちが、比喩的にいえば、日常的に「働いて」、「生活」しているように見えない。
なんというか渋谷という街を、演出するためにつれてこられたエキストラにしか映らないのだ。「トゥルーマン・ショウ」というジム・キャリー主演のおもしろい映画があったけれど、あの街にでてくる人たちみたいだというと大袈裟だろうか。

 「デイズド・アンド・コンフューズド」(レッド・ツェッペリンの名曲)という言葉が、渋谷を歩く都度、頭をよぎる。渋谷の街の、ある意味での変わらなさがもたらす、時間をロストする「幻惑」と、ひとりの外国人として感じる、見当識をロストする「混乱」。そんなふたつの局面を同時に感じてしまう。

「ロスト・イン・トランスレーション」では、登場人物たちが、そんなトーキョーの姿、ネオン、ことば、風俗、人々に、デイズドし、コンフューズドしていくさまが、とてもうまく描かれている。
 おそらく世界的にまれな、歴史という時間軸を失った都市であるトーキョーは、自我をロストした西洋人にとっては、麻薬的な幻覚や陶酔をもたらすのかもしれない。
 そしてそれは別に外国人だけではなく、この国にすむ、たとえばぼくのような人間にも起こっていて、大きな自家中毒の様相を呈しているのだろう。
渋谷はそんな自家中毒のうずの中心となっているような気がしてならない。

映画のチケットを買って、上映時間まで一時間ほどあった。近くにあるレコードの量販店にいって、ジャズのコーナーをのぞくと、ジョン・コールトレインの「ジャイアント・ステップス」が、黄色い段ボールに入って、ほかのCDとともに、まるでスーパーの見切り品のように投げ売りされていた。

 自分の内部にある時間と外側の時間の進みかたが、いつの間にかはぐれてしまったようだ。こんなときはこの時差を埋めてくれる、素敵な「トランスレーター」がいてくれたらと思う。

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