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ひだりがわ

青い液体を手につけ、こするように泡立てる。その手もとから目をあげると、正面の大きな鏡に、惚けた自分の顔を見つけた。
なんだかとても久しぶりに会った友人のような、どこかよそよそしさも感じ、いつもならすぐに視線をそらすのだが、きょうにかぎってはどうしてか、まじまじとみつめかえしてしまった。
手探りで流れる水を止めながら、おやと思った。
左目が右目より少しばかり大きいのである。さらにそのあたりの観察を続けてみる。正確にいえば、左のまぶたがより開いているようなのだ。そのせいだろうか、黒目も右目より大きいように感じる。私の黒目はいま、鏡の前にたって、鏡のなかの私の黒目をじっと見ている。
すると左の黒目はやや外側にゆっくりと動きだし、あるところまでいくと、ぴたりととまった。これではちょっとした斜視なのではないかと、いままで思わなかった自分の黒目の位置に感心したりもする。
深夜のスタジオのトイレのドアの向こうには人の気配はない。それをいいことにさらに自分の顔をみつめてみる。
不細工だなと、つくづく思う。こんな風にさらしながら、ずいぶん長いこと生きてきたのかと、がっかりもする。ふと大道寺将司の詠んだ句が浮かんできた。

おほかたは器量不足やふところ手

たいがいは器量も度量もなければ、才能もない。そんなたいがいの片隅にひっそりといる、こんな顔など、どうということもない。
カサヴェデスの映画にも
「一番幸せな人とは、気楽な人のことだ。」
という台詞があったなと思い出す。

映画館ではきまって、スクリーンに向かって少し前方の左端に陣取ることにしている。
映画の仕事についたころ、はじめて初号というものを観るために行った現像所の大きな試写室でのことだった。先輩にあたるひとが、このあたりが一番音のバランスがいいんだよと教えてくれたのが、この左端の席だった。
その先輩は穏やかで、心優しく、なにより他に先んじて何かをするようことはしなかった。いうなれば進んでいい席に座ろうとはしない、そんなタイプのひとだった。そんな欲のなさに、もどかしい気持ちを持った時期もあったが、いまはない。それでよかったのだと思う。だからこそ二十五年も前に教えられた、左端の席にずっと座りつづけているのだ。
顔を少しばかり右に向けて、ほんのわずかに傾斜角のある左目に意識を持っていくのが、上映前の習わしだ。鏡のなかの左目のあたりを注視しながら、だから左目が大きくなったのだろうかと、やや自重気味に問いかける。

深夜の馬鹿げた時間はここまでだと、私は鏡から目を離し、ハンカチで手を拭いた。去り際にもう一度鏡を見ると、不思議なことが起こっていた。
つい今しがたより、あきらかに左目あたりが、いや、顔の左側がふくれているのだ。前のめりに、息をこらして、鏡をみつめると、まるで風船ガムをふくらますように、ゆっくりと、ゆっくりと左側がふくれていく。
今起きていることが、一体何なのかわからないまま、私は声にならない音を発して、かたく両方の目を閉じた。こんなあやかしに負けまいと、力一杯まぶたを合わせる。全感覚を顔に集中するが、その左側になんの違和感も感じることができない。たまゆらの幻覚であるといいきかせ、目をあける。しかしそこには、相変わらず顔の左側を大きくふくらませた私の顔があるではないか。
私はふたたび、きつく目をとじた。
ゆがんでしまったのは、この私の顔なのか、それとも鏡のなかの風景なのか。ひどく動揺し、目を閉じたまま、鏡の前に立ちつくすしかなかった。
どれだけの時間がたったのだろうかと思う。
私は意を決して、ふたつの手をそっと持ち上げる。すると、また大道寺の詩がやってきた。

くさめしてこの世の貌にもどりけり

静かに口ずさんで、そして両のひらを、左右の頬に近づけた。

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