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棄民考

一、

 五時まであと少し。太子堂の八幡神社の境内に遊ぶ子どもたちを眺めながら、わたしはだらしなく連なった列にならんでいました。そこにいる何人かは知り合いらしく、互いにちょっとした挨拶をかわしたりしていました。はっきりとはしませんが、みなわたしと同じ、五十歳をすぎたくらいのひとが多いように思いました。
「あれ、今日来たの?」
 いま到着したばかりのメガネのおじさんが、私のすぐ後ろにいたボウシのおばさんに話しかけました。
「そうなのよ、明日の楽日が仕事でこられないから、今日来たんだけど、さっき電話で、仕事がなくなっちゃって、明日も来れるようになっちゃったのよ。」
「じゃ、明日も来るんだね。」
「そうねえ、やっぱりね、楽日だからね。でも仕事ないから、お金がたいへんだわ。」
 うんと頷いたおじさんは、
「こうして定期券がなくなると、つくづく電車賃って馬鹿にならないと思うよ。ここにくるのに、往復千円ちょっとかかるんだもんね。」
「消費税あがったからね。いろんなものが一気に値上がりしたように思うんだけど。どうなんだろうね。仕事はないし、まわりのひとの給料もあがってないみたいだし。」
「そうだね。たいへんだ。暴動でも起こそうかね。」
「やろうやろう。」
 そういってふたりは笑い、おじさんは入場整理券をもらう列の最後尾に向かって歩いていきました。五時の受付開始はもうすぐです。

 わたしはこのところ「棄民」ということについて考えています。国家から、社会から、共同体から「棄てられた」個人のことについて考えています。あるいは国家が、社会が、共同体が、個人を「棄てる」ことについて考えています。
 一週間ほどまえにも、わたしはこの八幡神社に芝居を観にきました。水族館劇場公演「Ninfa 嘆きの天使」です。舞台は樺太、シベリア、網走、青森の板柳です。登場するのはアイヌ、あいのこの捨て子、からゆきさん、神の国を追われ流浪する陰陽師たち、そして永山則夫の家族です。
 開演前、神社境内の真ん中で演じられるプロローグでは、弘前の脳病院から抜け出したセツ姉さんとそれを捕らえようと取り囲む医師たちが登場します。そこに割ってはいったアイヌの貞吉の銃弾がセツ姉さんを自由の世界へと逃がします。
 夢見ることが許された自由の世界で、気の触れたセツ姉さんの夢が解き放たれることで物語ははじまります。見捨てられた土地で、すべてのものから捨てられた「棄民」たちの物語です。

 永山則夫は五歳のとき、兄弟とともに網走で、母親から置き去りにされます。ストリートチルドレンと洋語でいえば、なんだかオブラートに包まれて、ことばを使うこちら側を免罪するかのようで嫌なのです。だからあえて乞食と、そう、想像も絶する寒さの土地で乞食のように暮らしていました。漁師がこぼしていった魚や波打ち際の死んだ魚を食べて飢えをしのいだそうです。一九五五年くらいのことですから、もう六十年も前の話です。
 もちろんわたしも生まれていませんし、敗戦から十年の貧しい時代というのは、頭でわかっていながらも、なかなかそのひとつひとつを思い描くことは難しいです。それでも私は永山の生い立ちは、なにか特別なものなのだと思ってきました。

 二〇一〇年に大阪で、三歳と一歳のこどもが母親に置き去りにされ餓死するという事件がおきました。そしてついこのあいだも厚木で同じ置き去り餓死事件が発覚しました。八八年の「巣鴨置き去り事件」などの育児放棄とはまた位相のことなった身も凍るような事件に遭遇して、わたしはその温度感覚からか、永山則夫のことを思っていました。そして永山がこの社会で生きた十九年間に寄り添うことで、それまで考えてきたいろいろなことが、ひとつのことばにまとまっていくのを自覚しました。それは「棄民」という、なにやら禍々しい響きをもったことばだったのです。


二、

 ここ数年、ぽつりぽつりとですが、餓死するひとのことがニュースに登場するようになりました。大阪の置き去りにされた乳幼児だけでなく、虐待で食事を与えられなかった中学生や小学生もいます。そうかと思えば大人までが餓死していたりします。餓死という極限に近い死に方をむかえるひとがいながら、地域や近隣の住民、行政もまったく気づかないでいるということに、ただただ驚くばかりです。
 世界でも有数の豊かな国にいて、食べるものがなくて死んでいくひとがいる。すぐそばではそれこそ大量の食料廃棄をしながら、だれひとりとして手を差し伸べることのないまま、飢えて死んでいくのです。これは一体どういうことなのだろうかと自問します。

 豊かさと餓死。二律背反する事実を前に、理解しようとして自分のなかで起こる噛み合わせの悪さに、ふと「棄民」ということばが思い浮かんできました。「棄民」という表現が正しいのかどうかはわかりませんが、いずれ思い描いたのは、国や社会からも、人々からも無視され、忘れ去られ、打ち捨てられた人々の姿です。かつて永山則夫が書く文章に、このような「棄民」を見つけて、その人生を数奇なものと見做していたのは、どうやら大きな間違いだったのかもしれません。

 「棄民」ということばを禍々しいだけにせず、もう少しその解釈を広くしてみれば、実のところわたしたちの身のまわり、すぐそこやここにたくさんの「棄民」を見つけられるのではないかと、わたしは思いはじめました。これまで、ただ自分たちは断じて「棄民」でないと思い込みたかったし、よしんば「棄民」としての予兆があるとしても、一向にそれを認めることを拒んできたのではないでしょうか。あるいはすぐそこに「棄民」がいるということを認めたくなかった。

 わたしは永山則夫のような「棄民」ではないし、そのようなものからほど遠い存在なのだといいきかせるために、いろいろな装飾やオブラートや被せもので、自らの「棄民性」や近くにいる「棄民」を隠していたように思います。あたかも腐乱していく死体に枯れ葉を被せるように、異臭が外に流れないようにガムテープで目張りをするように、隠蔽してきたように思うのです。しかし、もはやそれを隠しきれなくなっているというのが、いまという実時間なのではないかと思うのです。

 わたしたちは大きな震災と未曾有の原発事故を経験しました。そのことでわたしたちは実にたくさんの課題を突きつけられました。それはひとりひとりに、価値の再認識と転換と、これからの未来に対する態度決定を迫るものでした。
 「絆」の名の下に、たくさんの「善意」や「支援」や「プロジェクト」を喧伝するプロパガンダが流されました。そのしたに隠された「なにか」に、わたしは自分自身、注意深くあろうと言い聞かせていました。そのときから「棄民」という概念の芽があったように、いまになって思い返します。

「ジャンケンのまえに、やつれたおんなは言った。よく熟れた赤い秋茱萸を食べながら。『あたしは変わりたいのよ。すっかり変わりたいのよ。どうなふうにでもいいから、変えられたいのよ。』すべての舫いの糸は切れていた。舫いはもともとなかったのかもしれない。それにたいし、わたしは地虫みたいな小声で言った。『おれは変わりたくない。これからはただの窩になりたいな。夜に張り出すのではなく、夜の窩に。』応ぜず、おんなが言い足した。『このままなにもしないわけにはいかないわ。なにかしなければ。行かなければ・・・』この期におよんで、みんなそう言うのだ。なにかしなければ。なにもしないわけにはいかないから、なにかしよう、と。圧倒的正当性をおびた怪しい空洞。なにもしないわけにはいかないともあながちおもえないので、なにもしないわたしは、当面の不正義に区分される。」(辺見庸「行方」)

 大震災と原発事故を契機に、わたしは辺見庸という作家に、急速に近づいていきます。あの状況下にあって、ただひとり、辺見庸だけが、ちゃんとしたことばを話していたように感じたからです。もちろんもっと他にも幾人かはいたのだろうと思いますが、わたしには辺見庸だったということです。


三、

 ある作家につよく惹かれるということは、そのままその作家の、ものを見る眼の高さや位置、つまり眼差しに興味をいだく、あるいは共感するということだと思っています。辺見庸は、ひとをひとりひとりとして、事物をひとつひとつとして、じっと見ます。決して「ひととは」とかいったようなくくりかたをしないのです。統べるという行為を徹底的に自分に禁じているかのようです。
 そしてその眼差しと態度は、このうえなく「反権力的」でもあります。「反権力」というとなにやら不穏な印象を与えてしまうかもしれませんが、決してそうではありません。ある意味で、ひととして実に真っ当なものの見方だと思うのです。

 権力はその本質として「統べる」ことを内包しています。この場合、権力とはいわゆる政治権力だけではなく、いろんな局面や場所でみられる「力」そのもののことです。「反権力的」な視座とは、支配する側、統制する側が発動する「力」に対して、ひとりの「個」としての別の角度からの見方、統べられる側から見た単独者としての相対的な見方、眼差しにほかなりません。
 ひとは、決して統べることができない、あるいは統べるのがとてもむずかしいものだと思います。ひとがひとたるありようは、実にさまざまだからです。
 ひとは、臭いし、うそをつくし、ずる賢くて、だます。のんだくれで、羽目をはずして大騒ぎをし、強欲で、貪欲で、自己中心的で、スケベです。
 もちろん一方では、善良で、やさしくて、おもいやりがあり、互いに助け合い、社会的で、克己心を持ち、自己を律してもいます。そんないろいろなひととしての側面や要素が、瞬間的に入れ替わり、立ち替わり現れ、ときに同居し交錯しながらそのひととなりを作っています。ときとして、「私」とは、確固たる自己そのものがあるのではなく、ひょっとすると単なる現象にすぎないのかもしれないと思ったりします。

 辺見庸は、そんな「うたかた」のようなひとりひとりに、いいかえれば、容易に統べることのあたわぬ「個」に、じっと寄り添うのです。そして自らもその「どうしようもないもの」、「まったくの余計なもの」として自己を措定し、その位置から、ものを見ています。たとえば権力というものに対しても、変わらぬ目線で、じっと目を凝らしているというわけです。
 つまりここでいう「反権力」とは、権力にやみくもに反対するというのではなく、権力を「個」の立場からしっかりと見つめ続けるという、ある意味、非常に古典的ともいえるジャーナリズムの姿と態度なのであります。ただ辺見庸の場合、単なるジャーナリストとしての批判性だけでなく、そこに詩人としての卓越したことばへの多様性と豊潤さをかねているところがあり、そこが大きな魅力となっているのだと思います。

 その辺見庸が、このところの大きな政治的な動きに対して、その権力のあからさまな転換に対して、ただならぬ警戒心を抱きながら、創作と発言を続けています。それはいまや、「個」であるわたしたちひとりひとりの生存と意思と自由が、たいへんな危機に晒されていることへの警鐘を打ち鳴らす行為にほかなりません。


四、

 いま権力は、なにかを隠そうとしています。コーティングして、オブラートに包み、見た目を鮮やかに装飾して、いい匂いをふりまきながら、一見してそれがなにかわからないようにして、その下でなにかを進めているのです。
 たとえば辺見庸が書いた『側』では、新しく建てかえられた東京拘置所についてこう記しています。

「やっとのことで全部で二十六段の陸橋をのぼりきると、見ようによっては今風のホテルみたいな建物がかぶさるように眼前に聳えていた。だが、こぎれいな建物の形にどうにも割り切れぬ思いがして、なぜそうなのか考えてみたが、よくわからない。ただ、その建築物はいかにも書き割りみたいに嘘くさく、どこか油断ならない感じがした。」(辺見庸「側」)

 「今風のホテルみたい」な「こぎれいな建物」のなかには、たくさんの懲役受刑囚、確定死刑囚がいます。わたしも東京拘置所のまえに立ってみたのですが、ものものしい高い塀があるわけでも、監視塔がそびえているわけでもありません。差し入れ専門店池田屋がなければ、そこが刑務所であることはわからないでしょう。そのこぎれいさ、近代的な様相は、外向けに配慮されているばかりでなく、おそらくそのなかにいる多くの服役者たちを管理し、統べるのにもっとも合理的に設計されているにちがいありません。この建て替えと合理化で死刑囚の暮らす独居房が、外の空気にすら触れることができなくなったとしても、それは権力の側にとってはどうということもないのです。

 獄中にありながら俳句を詠みつづけるものが、迷い込んだ小さな虫やハエに自分を見つけたり、風が運んでくる花の匂いに季節を思ったりすることを許さない合理性とは、いったいどのようなものだろうかと思うのです。獄中の俳人が詠んだ句集が昨年「日本一行詩大賞」に選ばれ、その自選句を大会主催者に送ろうとしたところ、それらを黒塗りに、それも徹底的な黒塗りにして読めないようにしてしまう合理的な整合性とはいかなるものなのでしょうか。管理するベクトル、統べる方向はどこにむかっているのか、それはますます人間的な体温、あたたかさから離れていっているのではないかと思うのです。
 これはなにも刑務所という特殊な場所だからというわけではありません。わたしはこのことを汎用できる「比喩」として記しています。わたしたちの身のまわりに、東京拘置所で起こっているような、顔の見えない、のっぺらぼうの、ひととしてのあたたかみのない人間関係や環境を、すぐそこに見つけることができるのではないでしょうか。
 オフィスやお店は、今風にこぎれいになって、設備も快適になっているにもかかわらず、働くひとや学ぶひとは、それに比例して、その充実度や幸福度はずっと増しているのでしょうか。実際のところはどうなのか、どうか教えてもらいたいです。ただわたしの身のまわり、ぐるっと見回す限り、そうはなっていないのです。

 高く頑丈な塀、聳えたたつ監視塔といった「権力のシンボル」を、いまや統べる側は意図的に、わたしたちに見えないようにしています。「監獄」のような禍々しいものは、わたしたちの視界から消えてなくなりました。しかし「どこか油断のならない」「書き割りみたいに嘘くさい」建物はそこにあります。見えなくなって、消えていったのは「犯罪者」や「死刑囚」、そして「死刑制度」そのものなのです。
 コーティングする。オブラートにくるむ。いろんな装飾品で覆いつくす。見た目がきれいになればなるほど、周到に核心となるものからわたしたちは遠ざけられていくのです。

 インターネットが普及して、いわゆる情報と呼ばれるものが一部の権力者に秘匿され、寡占されるのではなく、ひろく公開されるようになっているにもかかわらず、わたしたちは肝心なことをちゃんと知ることができないでいます。知りたいと思っても、権力の側に都合の悪いことについてはなにも知ることができないような構造、そちらに目が向かないような構造が、いつの間にかできあがりつつあります。
 一緒に東京拘置所見学に行った友人が、いろいろな角度から建物をカメラで撮っていると、すぐさま所員がでてきて許可なく撮影をしないようにと注意されました。どうやらこちらの動きは、一瞥しただけではわからない無数のカメラによって、逐一監視されていたようです。


五、

 わたし自身、ひとは類化できないもの、統べられないものとして、ひとつの「個」として、その立場からものを見てきたつもりでいました。しかし大きな震災があって、それがきっかけで辺見庸という作家の視点に出会うことで、わたしのそれはまったくなっていない、どうしようもなく生半可なものであったと思いしらされました。
 「すべての絶えいるもの」そして「とるに足らないもの」に対して、一体どれほどまで配慮していたのか、よく想像し、考えを尽くしてきたのかと、大いに内省を迫られる、この三年あまりでした。

 辺見庸のここ何年かの作品を読めば、そこに登場するのは、どこにも属さない、或はあらゆるところから切り離されたものたちばかりであることに気づきます。『青い花』では、どこまでも荒廃した、しかし懐かしささえ覚える近未来の景色を、麻薬「ポラノン」を求めて彷徨い歩く「わたし」の姿がありました。『アプザイレン』では、死刑を執行する刑務官が、階下でぼんやりとその儀式を待ちながら、童謡を口ずさんでいました。『カラスアゲハ』では、幻視の海にたゆたうひと組の男女の、もはやだれにも探されることのない水死体の話し声が聞こえていました。

 刑務官は立派な国家公務員だろうというかもしれません。しかし彼に命ぜられた儀式は、まったくの秘儀として、社会から隔絶、隠匿されたものです。国の大義のもと、これから殺人を行う、それを幇助する役目を担った瞬間に、彼はいっとき、この社会から、この世から切り離されるのだと思います。

 先輩の刑務官は、戸惑う「かれ」に、こうアドバイスしてくれます。

「そうだな、あたまのなかをだな、唄でいっぱいにするんだよ。ほかのことをぜんぶしめだすのさ。くりかえしてうたっているとだな、終わってるんだ。CMソングなんか意外といい。どんなCMソングですか?あほ。自分でさがせ。せんぱい、おねがいです、ヒントだけでも。ふーむ、たとえばだな、カムカム・チンカム・チムトカム‥‥」(辺見庸「アブザイレン」)

 わたしは、それまで、仕事としてであれ、殺人を強要される刑務官の苦しみを想像することがありませんでした。同じように、親に置き去りにされ、飢えて死んでいく幼いこどもたちにも思い至らなかったのです。ましてや津波で流された死体が、月下でどんな唄を、囁くように歌っているかなど想像できませんでした。

 『カラスアゲハ』には、こんな一節があります。

「『すでにたばこはなくなりぬー たのむマッチもぬれはてぬー うえせまるよのさむさかなー』。零子は影の行列がとおりすぎてゆくのをじっと待った。心でいっしょにうたいながら、ひとびとがとおりすぎてゆくのをじっと待った。
 年夫もこの唄を、なにかすこしためらいのようなものがまったくないではないけれども、きらいにはなれない。からだがつい反応してしまう。復興支援ソングよりこれがよい。空々しくないからだ。意味はあまりわからないのだけれど、重みがちがう。じぶんなりに元気になる。それといっしょに悲しくなる。」(辺見庸「カラスアゲハ」)

 大震災から三年たって、一生懸命考えて、少しだけわかったことがあります。それは、このわたし自身が「棄民」であるということです。見つけたのは、国から、社会から、会社から、あらゆる絆や共同体から切り離され、見棄てられたわたしの姿でした。それはいまにはじまったことではなく、ずっとそうだったのです。ただそのことに気がつかなかったというだけのことなのです。


六、

 武蔵小山に引っ越してきてもう十三年が経ちました。移ってきた当初は、長いアーケード商店街を中心に、小売店や飲食店がひしめいて、駅から少し離れれば、小さな町工場があちこちにあるようなところでした。調布の閑静な住宅地からやってきたので、最初のころは、そのお祭りのような賑わいに大いに戸惑ったものです。

 もちろん今でも賑わいはそのままです。しかしよく見ると、少しずつ様子が変わっているのがわかります。いつの間にか町工場からの音が聞こえなくなり、その跡地はマンションやアパートになっています。個人経営のお店はどんどんとチェーン店にとってかわられ、通りの看板はよく見かけるカラフルなものになり、どこかよそで見たような街並みになってきました。
 かつての闇市を彷彿とさせる、一杯飲み屋さんやスナックが軒を連ねる飲食店街も、再開発の名のもとに、あと何年かで取り壊しになります。大規模な工事が、煤けて黄ばんだ昭和の面影をきれいに洗いながして、そこに今風の四十階建てのマンションがそびえたつ予定です。巨大な建物のまわりには木々や芝生が植えられ、道も整備されるみたいです。そうなれば、またずいぶんと、この街の景色は変わることでしょう。

 そういえばわたしが育った二子玉川の街も、大袈裟にいえば、ひとつとして幼少の頃の記憶をたどることができないほどに、「開発」されてしまいました。かつて自分がそこにいたという名残りが、ことごとく塗りつぶされてしまっているのです。街がどこまでもよそよそしく、疎外感ばかりが募ります。だからでしょうか、二子玉川は長いこと、もっとも足を運ばない街になってしまいました。
 そして変わったのは風景だけでなく、そこに住むひとも入れ替わっていきました。おそらくずっと昔から住み続けているひとよりも、新しくはいってきたひとのほうが多いだろうと思います。名残りもなく、知っているひともいない街に、もはや愛着を感じることはできません。もともと「都会っ子は帰るところがない」といわれていたので、なんとも思いませんが、「開発」はあまり度が過ぎると、そんなもろい根っこの最後の一本を引き抜いてしまうので、やはり少しさみしいです。

 「戦後的なもの」と呼ばれる側面のひとつに、国をあてにしないという気概というか矜持みたいなものがあったと思います。一九四五年の敗戦は、大きな価値の転換をひとりひとりに迫るものでした。これからは「新しい日本」ですよといわれても、はいそうですかとはすぐにいえない土壌が、「戦後」の根底にあります。
 「戦後」は、そんな国やら歴史やらから切り離されたひとびとによって作られてきました。その心情みたいなものは、わたしの年代にも残っているのではないでしょうか。日の丸はどこまでもよそよそしく、国歌はあるのかないのかわからないでいて、それでも別に不便はありませんでした。高校の卒業式に「君が代」を歌うかどうか君らの意見で決めたいと、いたく真面目に教師にいわれ、投票などして「歌わない」が多数でした。そんなことはどうでもよかったのです。

 大きな旗のもとにたばねられることがないまま、それぞれが勝手にいろいろなことをやっているのが、「戦後的なもの」のイメージと重なります。しかしどこか曖昧にしたままのところもたくさんあって、本来ならしっかり見なければいけないものを見ないようにして、ほんとうは決めなければいけないことを先送りにしてきたのもまた「戦後」のひとつの姿だと思います。
 それは自分たちの戦争責任を見ないようにするための処世術でもあり、天皇制をどうするか、戦後体制をどうするかという態度決定をなんとか回避する知恵でもあったように思います。そのために視野をせまくし、自分を忙しくして、大きな命題から逃げてきたのだと思います。

 しかしいつまでも見ないふり、忘れたふりで問題を先送りして、場当たりな対応ですますには、もはや限界がきているのは、誰しもがわかっていたことです。だからこそ、さきの東京都知事やいまの大阪市長の、そして現政権の、こどもじみた、粗野で横暴な立ち振舞いを傍観するしかないのです。
 まただからこそ、市井にあっても、グローバリゼーションなる洋語に代表される、失礼極まりないものいいと態度で行われる制度やシステムの改変を許してきたのだと思います。


七、

 わたしは、水族館劇場という劇団についてなんの知識もなく、今回の公演に関してもなにも調べないまま、ある日の夕刻、ふらっと太子堂の八幡神社にでかけたのでした。
 境内で催される三十分の大道芸とこれからはじまる芝居のプロローグを観て、若かりし頃に胸躍らせた、どこか懐かしい興奮をほのかに呼び起こしたりしました。
 大きな声とともに、わたしたち観客は誘導されるがまま、木札に書かれた順番で、黒布をくぐって劇場にはいります。階段状に組み上げられた観客席を見上げ、さてと座る席を探します。整理番号がよかったせいで、よりどりみどり。どうせならと、一番前の真ん中に陣取ることにしました。足元にはどうやら水しぶきをよけるときに使う透明なシートが無造作に置いてあります。舞台と観客席には段差はなく、すぐ目のまえには、だらっと、緞帳ならぬ黄ばんだ白い幕がかかっています。

 そしてあらかた席が埋まったころ、前説をかねた役者が、劇場の支配人と掃除係として登場してきました。ちょっとした芝居の合間に、掃除係が「携帯電話のスイッチは、切ってください。写真は撮らないでください」と呼びかけます。そのあとに支配人役はぐっと客席を見上げ、こう言い放ちました。
「ここ板柳大映、はじまって以来の大盛況であります!」
 板柳大映?と、わたしは思いました。おもしろいことをいうな、じゃここは映画館、板柳大映の客席っていうことか。

 そして黄ばんだ幕が左右に開き、目の前の景色に、わたしはちいさく、あっと声をあげていました。上手には永山則夫が育った「マーケット長屋」の祖末なあばらやが、下手には果たしてその通り「板柳大映」があったのです。そして中央には新聞を脇に抱えた少年が、唯一優しくしてくれた姉の幻影を求めて、小さな檻にしがみついていたのです。彼は津軽弁独特のイントネーションでこう呼びかけていました。
「セツ姉さん!」
 舞台美術、装置の素晴らしさと導入の役者の演技に、しばらく胸を圧迫され、息ができませんでした。これはいずれ何らかの形で、永山則夫をめぐる芝居であるのだと気づいたとき、わたしがすぐさま思ったのは、どうか連続射殺事件の犯人として刑死した永山則夫を、アングラ芝居のスキャンダラスな「エサ」にしないでほしいということでした。またこうも思いました。どうか素晴らしい作家である永山則夫を、演劇する自分たちの行為の正当性を誇示する「ダシ」として使わないでほしいと。
 わたしは水族館劇場についてなにも知らなかったので、とっさにそう思ったのです。それほどに、永山則夫は、戦後リベラルの偽善者たちに使い捨てられ、古びていったのですから。

 劇場を自分たちで作ってしまうこと、大掛かりな舞台装置とスペクタクル、神話、大仰な台詞まわし。そして永山則夫です。下手をすると、アングラ演劇全盛のころの赤テントや天井桟敷の幻影を、ただやみくもに反復するばかりになりはしないだろうかという疑念が、あたまをもたげていました。実際、観客は年配のひとが多く、隣のひとから「昔の状況劇場はさ」などと話しかけられもしました。

 しかし、物語がすすんでいくにつれ、「嘆きの天使」は、わたしのそんな杞憂を、完全にではないですが、大いに吹き飛ばしてくれました。結果としていえば、水族館劇場は、ややもすればアングラの符牒ともなりかねない永山則夫を、「エサ」にも「ダシ」もしていませんでした。それどころか、永山則夫をとらえる目線が、以前にここで書いた、「ひとりひとりとしてみる」という辺見庸の視点にとても近いのではないかと感じたのです。このことが、わたしにとっては新鮮な驚きであり、また心のひっかかりとなるものでした。

 この劇団の主宰者である桃山邑もまた、日雇いの労働者の経験を持っているそうです。というよりもおそらくですが、今も工事現場で日雇いとして働いているのではないかと思います。
 わたしはこれまで、いくつかの芝居をみた経験がありますが、工事現場の作業着を着た演出家、これほどまでに「労働」というものがその身体になじんでいる演出家を見たことがありません。
 おそらく桃山邑だけでなく、この舞台にでてくるすべての役者も裏方も協力者も、全員が労働者でしょう。役者づらや製作者づらなどせず、自分が日々やっとのことで暮らしている労働者であることを、これっぽっちも隠さないのです。
 傍目や体裁ばかりを気にする、見せかけのオシャレさはここにはありません。そんなむき出しの労働者が演じ、物語るのです。それは、その目線と身体性ゆえに、ある意味で「あたらしい」側面をたずさえて、圧倒的なリアリティを永山則夫に与えていたように思いました。


八、

 桃山邑は、「嘆きの天使」のリーフレットに「覚書」としてこう記しています。

「今回の芝居は富国強兵の旗の下、近代の軋みに押しつぶされていった者たちの移動の物語です。連続射殺魔・永山則夫の血筋と、貧困ゆえに流浪せざるを得なかった彼の係累の足跡をたどると、ほとんどそれが近代日本国家形成の歴史の、末端の部分(負の基層)と重なりあうような気がしてなりません。」

 この見方自体は、とりたててあたらしいものではありません。桃山邑が自ら日雇い労働者として、鶴見あたりで施したいくつかの護岸工事を、「そこに暮らした者の記憶をおいてきぼりにするための方便だった」と振り返ります。そして「永山が獄中で書き継いだN少年の記憶の物語は忘れさられる風景たちの、死滅への抗いにちがい」ないと続けます。

 わたしたちは、そういった「負の基層」を生み出しながら、作り上げていった「戦後」の社会に生きてきました。そしてそこで長いこと、自分たちは「中流」であると見なし、そういった最下層を形成する「負の基層」とはまったく無関係だと思い込んできたのではないでしょうか。
 なぜそう思い込んだか。お金があったからです。順調な経済発展のもと、たくさん仕事があって、それなりの環境で働くことができていたからです。安心して働く制度、たとえば終身雇用や勤続年数に応じた昇給が保証されていたからです。わたしたちはそうやって「中流」の生活を営んできたのです。
 ところが右肩上がりの経済成長が足を止め、バブル経済の崩壊や、リーマンショックなどを経験します。ドメステックな要素が強かった戦後の日本経済をとりまく環境も、グローバルな市場経済へと移行せざるを得なくなることで、いろいろな様変わりを余儀なくされていきます。それは「戦後」的な制度や言説や政治的指針もふくめての、大きな転換を意味しているのだと思います。

 二十一世紀にはいってから、この国の政策の多くは、弱い者の切り捨てていく「改革」を断行してきました。合理化と競争力と能力主義で、グローバルな大波を「勝ち残る」ための「改革」を受け入れてきたのです。
 わたしたち「中流」を守ってきたさまざまな法や制度が、次々に剥がされていきます。その多くは「民」を思い、「民」に有利に働くのではなく、統べる側、たとれば「国」や「大企業」や「資本家」といった支配と管理を担う側が優位にたつ論理で進められてきました。
「会社がだめになったら、おまえらの給料が払えないんだぞ。」
 だから我慢しろと。こちらのいうことをきけと、そういった恫喝まがいの論法が白昼堂々とまかり通っていくようになりました。同じように「国」があっての「国民」だといわんばかりに、集団的自衛権行使にむけての横暴極まりない出来レースが予定通り、ワールドカップの喧噪のうらで、粛々と進められています。

 そしてここにきて、やっと私たちは気づき始めているのだと思います。うすうすとではありますが、自分たちは「中流」であるという、その思い込みはもはや「過去のもの」なのではないかと、自分たちはすでに「見棄てられて」いるのではないかと思いはじめているのだと思います。
 そうなると、いままで見えなかった風景が見えてくるようになります。それは「見棄てられた」ものたちの景色です。失業者、日雇い労働者、河原で暮らすもの、ホームレス、犯罪者など、国や社会や自治体の大きな手の隙間からこぼれ落ちたひとたちの姿が、決して人ごとではなくなって、「明日は我が身」とばかりに、より身近に感じるようになっているのではないでしょうか。
 わたしが、水族館劇場公演「嘆きの天使」に、なにか「あたらしい」ものを見いだしたとしたら、それは、棄民としての永山則夫をめぐる物語自体が変わったのではなく、それを読み取るわたしたちの環境や境遇が変わってきたことによるものだと思っています。


九、

 何年か前のことですが、首都高速がその上を走る荒川河川敷に半分水に浸かった手作りの家にうかがったことがあります。すぐその近くで家の主と話し込み、「うちにこないか」ということで、お邪魔した次第です。
 大雨や台風では流されてしまうそうで、この家も三回目の建築だそうです。もちろん土台などありません。河岸にしがみつくようなかたちで家のほとんどは荒川にせりだしています。大工だったという主の作る家は、どこか端正で工夫があって、いわゆるホームレスの家とは思えないものでした。
 別れた家族は、荒川の近くで理髪店を営んでいるそうです。行こうと思えばすぐにでも行ける場所なんだけど、ずっと行っていないと、主はちょっと寂しそうにいいました。
「ほら、向こう岸にビニールシートの家が三軒並んでいるだろう。仲良し隣組なんだ。先週、そのうちのひとりが溺れて死んだんだよ。警察はさ、面倒だからさ、酔って川に落ちて死んだことにするんだけど、俺はあのふたりがやったと思ってるんだ。」
 インスタントコーヒーを差し出しながら、彼はそう話しだしました。
「最初はね、いいんだよ。助け合ったりして、仲良くしてるんだけど、そのうち決まって仲間割れがはじまる。ふたりがひとりをしめだすようになるんだ。三人は危ないね。だから俺は誰ともつるまないで、こちら側にひとりでいるんだよ。」
 狭いけれど、思ったよりもずっと居心地のいい家のなか。小さな布団に猫が一匹、気持ち良さそうに寝ていました。

 わたしは「棄民」について大きな誤解をしたでしょうか。たしかに辞書によると「棄民」は「国家の保護から切り離された人々」とあります。でもわたしはそれが決して悪いことや困ったことだとはこれっぽちも考えていません。むしろ「棄民」、大いに結構じゃないか、ありがたいことだとさえ思っているのです。
 「戦後」を築いたのは一体だれであったかを振り返ってみてください。一九四五年の八月に、生き残った日本人は、全員が「棄民」以外のなにものでもなかった。なぜなら保護してくれるはずの「国家」がなくなってしまったのですから。
 GHQ占領下のなか、それまでの天皇を中心とした国家形成の、堅牢な価値観を百八十度変えることを余儀なくされました。食べることも飲むこともあたわず、信じることすら奪われたまま、それこそ生きることが精一杯だった時代は、ほかならぬ「ひとりひとり」の時代、「棄民」の時代だったのではないでしょうか。

 わたしたちの「戦後」は、そこからはじまっています。すなわち「国家の保護から切り離された人々」によって作られていくのです。小津安二郎、成瀬巳喜男や溝口健二、そればかりでなく幾多の優れた映画監督の作品には、必ずや「ひとりひとりの戦後」が描かれています。いまでもわたしたちは、名画座にいくことで、或は、DVDを借りることで、「東京物語」に、「浮雲」に、「祇園囃子」に、「ひとりひとりの戦後」の姿を見つけることができます。
 それはもちろん辛い経験であり、苦しい時代でありましたが、しかし反面、それがゆえに、人間として、生きながらえる意志をもった強い身体と精神が、そしてなによりも「自由」が、あったのではないだろうかと思うのです。
 わたしがここで言及し、また期待するのは、二〇一四年にあって、わたしたち自身が、積極的に「棄民」として、「ひとりひとり」として、誇りを持ってその「自由」を謳歌する姿です。「民」として自覚する、強い心意気です。

 桃山邑は、さきのリーフレットにこう書いています。

「わたくしたちは国家にまつろわぬ不埒な藝能民です。蔑まれると同時に羨望される自由なる無名者でありつづけたいと思うのです。安定=幸福の等式であらわせない漂泊のたましいを、誰もが捨てられずに隠し持っている、胸の底にたずねてみたいと念じてやみません。」

大袈裟にいえば、私はここに闘争のエチカを見いだしたのです。


十、

 世の中にはすぐれた音楽家がたくさんいます。そのなかのひとり、ウエイン・ショーターは、ジャズライフ誌の、さきの来日の際のインタビューでこういっています。

「あるリーダーをフォローするのではなく、自分で自分自身がリーダーになることをはじめてほしい。クリエイティヴになるということは、そういうことだ。意を決し、フォロワーであることを辞める。そしてクリエイティヴになる変化を自分自身に許し、変化を起こせば、ひとりひとりの人生が大きく変わり、人類史上最大の進展が起きると思うね。音楽に、文学に、そして何よりも大きいのが、“習慣”に変化が起きる。」

 さらにこう続けます。

「現在は、すべてが経済優先主義で、世界中にある大企業のために政治や人が動かされている。そう誘導され、強制されていると言ってもいい。そこからの脱却は、皆がアーティストになることでしか解決されないんだ。未来は、常に未知だね。その未知である未来に、どう向き合うのか。通常、未知のものは怖い。だが、怖れをもたずに、どう未知と向き合うのか。そのやり方を、私たちは音楽でやり、聴衆に見てもらっているんだ。」

 おそらく彼がここでいっている「クリエイティヴ」とは、ものを作り出すこと、生みだすこと、またはその努力をするということだと思います。それは、なにか大それた、いわゆる「芸術家」や「クリエーター」の所作に特定するものでは断じてありません。むしろクリエーションなんて、自分などとは関係のない別の世界ものだという意識を変革し、ひとりひとりの人生のなかに、どんどんとクリエーションを取り入れ、実践することを強くすすめているのです。そしてそうすることが「経済優先主義」の世の中の価値観を変える、唯一の手段と方法だといっているのです。
 ウエイン・ショーターという音楽家が、身をもってわたしたちに示しているのは、どうやって「作り出す」のか、どのようにして未知、つまり見たこともないものと向き合い、つきあうのかということであります。

「私が共演するミュージシャンに要求するのはたったひとつ、『そこで初めて生まれる音』をだしてほしいということだ。」

 西洋音階では音はオクターブをいれて十二音しかありません。いいかえれば「ド」は「ド」でしかないはずです。しかしウエイン・ショーターをはじめ、優れた音楽家たちは、そうではないことを知っています。彼らはひとつとして同じ「ド」があるとは考えません。なぜならそれは言語にほかならないからです。
 たとえば、わたしが話すことば、書くことばは、もちろん日本語という特定の言語で、その文法や語法にしたがって話されたり、書かれたりしたものです。それはだれもが使う日本語の領域を逸脱していませんし、むしろ極めて凡庸ですらあるかもしれません。しかしわたしの声音、いいまわし、音程、あるいは書かれた文字のかたちや汚さ、語の組み合わせや修辞、助詞の使い方など、おそらくほかの誰とも、完全には一致しないでしょう。言語という普遍的な道具を使いながら、その実、非常に個別的であります。そのことを強く自覚することが、ウエイン・ショーターのいう「クリエイティヴ」たることなのです。

 朝、だれかにばったり会って「おはよう!」という。この「おはよう!」は、昨日の「おはよう!」とも、五分まえのそれともちがうのだと意識することであります。この「おはよう!」を自分のことばとして、つまり「そこで初めて生まれる音」として、そのようなものとして捉えるように心がけることです。それはいいかえると、「おはよう!」は常に同じであるという、そういった考え方やものの見方を捨てるということを意味しています。
 なんだか禅問答のように聞こえるかもしれませんが、このことは、わたしたちが「ひとりひとり」として在ることに、深く関与しています。国や共同体に簡単にその身を差し出したり、利用されたりしないためにも、自分自身の時間や人生を容易に他に手渡すことがないようにするためにも、「自分のことば」を獲得し、発していくというのは大事なことであり、大切なクリエーションの行為なのだと思います。

「自分で自分自身がリーダーになることをはじめてほしい。」と、ウエイン・ショーターはいいました。未知を怖れず、習慣や慣性に埋没せず、自分の時間をつねに新しいものとしてクリエイトすることで、だれもが自らの人生のリーダーたることができるのだと、そう語りかけています。
 ひとりひとりのクリエーションの実践が起こすであろう「人類史上最大の進展」と「習慣の変化」を、笑われるかもしれませんが、わたしは真剣に夢みているのです。


十一、

 夜の海の、凪いだ波間をたゆとう水死した魂を思い浮かべていました。それらは野火のように青く淡く光ったりするのでしょうか。「棄民」ということばがでてくるきっかけとなったイメージは、辺見庸の詩集「眼の海」におさめられた「死者にことばをあてがえ」でした。その一節を引用してみます。

わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけの歌をあてがえ
死者の唇ひとつひとつに
他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ
類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを
百年かけて
海とその影から掬え 

 津波という大きな力によって引き裂かれ、切り離された魂のひとつひとつを思いながら、どこか茫洋とした孤独、在るということの寂しさと悲しさみたいなものを感じていました。ほかにも辺見庸が、そのことばで描く大震災の風景は、断面と断章に満ちています。辺見が見つめる、その先にあるものは、もはや死体ではなく、その断片でしかありません。眼窩からはずれた眼球、あなたの左の小指、あなたの欠けた背、うちたおれた女のなま白い片足。
 浜辺に打ち捨てられたそれらひとつひとつに、そしてそれらを引き裂いたことどもに立ち向かうことばをわたしたちはあらかじめ持っていたでしょうか。あるいは、あらたにことばを獲得しようと努力したでしょうか。

 石巻市出身のこの作家が、半年ちかくにおよんだ失語症に苛まれながら、一連の詩を、文字通り吐き出しているさなか、「絆」と「花は咲く」の大合唱は、わたしたちのまわりにあふれかえりました。わたしは、どこかうつろな目をしていたのだと思います。そのときかすかに自覚したのです。切り離されて、打ち捨てられたのは、これら流されし身体の部位ではなく、ほかならぬこのわたしなのではないかと、そう思ったのです。

「すべての舫いの糸は切れていた。舫いはもともとなかったのかもしれない」

 と書いた辺見庸のあの感覚に近いものを感じて過ごしていました。

 敗戦から七十年ちかくも経って、ひとりひとりが「棄民」として投げ出されながらも築いてきた、いわゆる「戦後的」な舫いなどというものは、あらかた消え去ってしまったか、或はもともとそんなものはなかったのかもしれないと、ゆるやかな時間のなかで、気付かされてきました。そして「戦後レジームの脱却」を目指している勢力にも「経済優先主義」の価値観にも、同化することも迎合することもできないでいるわたし自身は、いまここにある、あらたな「棄民」なのではないかと感じていたのだと思います。

 大震災と原発事故から三年あまり、わたしのうつろなまなこにも、「戦後レジームの脱却」は、はっきりと、実に色鮮やかに映りました。わたしたちは民主主義を失いつつあります。議論する議会は空洞化し、政党政治もなりをひそめ、理念である憲法もどうやら手放すことになりそうです。さながら独裁政権のスピード感で、国の重要な方向性と未来が決まっていっています。
 秘密保護を名目としたスパイ法と言論統制システムができ、いつのまにか戦争兵器も作れるようになったようです。原発は再稼働されますし、集団的自衛権の解釈変更も可能になります。日本軍がアメリカ軍とともに軍事同盟を強化させ、他国で戦争をするようにもなるでしょう。

 すべてがスケジュール通りです。このプロセスのどこに「民」がいたのでしょうか。アメリカでも財界でも省庁でもなく、「民」そのものが視野のかたすみにはいったことが一度たりともあったでしょうか。もはやわたしだけでなく、おおくのひとりひとりが、もはや「民」でなくなっている現実があるように思います。わたしたちは「民」たる要件、たとえば人権に代表される権利や民主主義といった理念を、安易に差し出してしまっているのではないでしょうか。
 わたしの死期が近づいたある日、孫から「あのとき、ジジはどうしてたの?」と訊かれたとき、「オリンピックとサッカーを見ていたんだ。」と寂しげに答えることだけは、どうしてもいやなのです。


十二、

 一九四五年の夏、敗戦と戦争責任という十字架を背負ったひとびとが、国家から投げ出され、自らを「棄民」として任じることを余儀なくされた状況がありました。焼け野原に立って、自分の力で生きていかなければならなかった「棄民」たちは、必死にその人生を切り開いていくことで、やがてそれが舫いあって、「戦後」という時間と空間を作ってきたのだと思います。
 民のちからで築いてきた「戦後」社会の発展と成熟のなかで、ゆっくりと、ひとびとは「棄民」という意識をしだいに忘れていく、あるいはどこかに置いていくようになったのだと思います。

 しかし、その「戦後」という新しい社会からもまた、こぼれていくひとたちがいたのです。その象徴的なひとりが永山則夫です。連続射殺魔として十九歳で逮捕されて以来、縊られるまで、永山は獄中で勉強し、ことばを獲得し、自らの人生の「調書」を残しました。それはひとりの「棄民」が深く苦悶しながら、自分を打ち棄てた社会に対して復讐する物語です。
 わたしはそれらを読みすすめることで、もはや「戦後」から遠く離れた現代の実時間においても、永山のそれとはまたちがった様相で、しかしある意味でパラレルなかたちで、あらたな「棄民」を大量に生み出しつつあることを知ります。

 網走の荒れ野に、腹をすかせて立つ五歳の永山を思いながら、厚木のアパートや大阪のマンションの一室に置き去りにされ、餓死していったこどもたちの苦しみを感じます。殺されることを望んで米軍基地に忍び込み、たまたま見つけた自動小銃で、無差別殺人を犯す十九歳の永山少年の衝動に、秋葉原事件の加藤智大や池田小事件の宅間守の内面に起こったことを重ねたりするのです。

いまわたしたちがするべきことは、舫いを失った失意に打ちひしがれることでも、自分を棄てた社会に復讐することでもありません。切り離されてあることを、悪いことではなくむしろいいこととして自覚し、クリエーションをはじめることだと思います。
 わたしたちは、傍目には華奢で整然とした都市にいます。しかし「棄民」を自任する想像力には、これを黒く焦げた焼け野原、果てしなく続く荒野として映るかもしれません。あらたなスタート地点にたって、わたしたちは、あらたな価値観、理念、政治、ものづくり、ことば、舫い、芸術、そして未来を作っていかなければなりません。

 「棄民」であるには、まずなによりも「まつろう」ことをやめることが肝心だと思います。水族館劇場の桃山邑はこう書きました。

「わたくしたちは国家にまつろわぬ不埒な藝能民です」

 わたしたちも国家にまつろわぬ「棄民」として、会社にまつろわぬ会社員、労働の徒として、行政にまつろわぬ生活者として、なによりも「ひとり」であることを喜びながら、清貧のうちに生きていくのがいいように思います。
 ウエイン・ショーターが音楽を通じて提示しているのも、同じことです。彼は「フォロワーであることを辞める。そしてクリエイティブになる変化を自分自身に許し」ていくことからはじめようといっています。すなわち自分自身を安易にだれかにあずけてしまうのではなく、未知を怖れずに、自分の力でクリエイトしていく。そうすることでしか、変革と前進を成し遂げる手段はないと考えています。
 国家や社会や会社や行政は、わたしたちのあずかり知らぬ「別の世界」や「上」にあるのではなく、わたしたちが作っていくもの、クリエイトしていくものにほかなりません。
 自分を自分の人生のリーダーとして、自分なりのことばを使い、一瞬を常に新しいものと感じ、なにかを生み出す気概をもって過ごしていくなら、きっとそこには、これまでにない人間関係や舫いが生まれていくことでしょう。そこではじめて想像もできない力を持ったチームプレーが生まれることでしょう。そうすれば、わたしたちの未来は、創造的に、劇的に変わることができると、わたしは強く信じています。

 最後に辺見庸の講演録「死刑と新しいファシズム」から、講演の結びのことばを引用して、この小考察を終わりにします。

『きょうお集りの皆さん、「ひとり」でいましょう。みんなといても「ひとり」を意識しましょう。「ひとり」でやれることをやる。じっとイヤな奴を睨む。おかしな指示には従わない。結局それしかないのです。われわれはひとりひとり例外になる。孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること。これが、じつは深い自由だと私は思わざるをえません。』

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