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ミソジニーとネポティズム

 昨今はIT全盛なせいか、カタカナ語が多い。そういうIT系やビジネス系のカタカナを使うようなところにいないので、なんの不便もないが、いくつかその響きがおもしろくて意味を調べたものがある。
 まずは「ミソジニー」だ。なんとなく「三十路に」と聞こえて興味を持った。なんでも「女生蔑視」という意味らしい。
 いまやメディアの集中砲火を浴びている稲田防衛大臣だが、その定例会見のなかで、おそらくひとりの記者なのだろうが、防衛大臣のことを「あなた」よばわりしながら質問するひとがいる。それを見ながら、いくらなんでも現役閣僚を「あなた」はないだろうと、せめて「大臣」と呼ぶのがまっとうではないかと、ちょっと嫌な気持ちになる。
 いくら疑惑や不祥事があったとしても、もし同じ局面で大臣が石破氏だったら、この記者はそれでも「あなた」よばわりするのだろうか。そこを曲げずに通してくれたらいいのだが、どうもあやしい。そこにはいいようのない、女性への蔑視があるように感じる。
 脳裏に「ミソジニー」ということばが浮かぶ。こういう「ミソジニー」はぼくたちのまわりに、まだまだいくらでもある。

 「ネポティズム」は「縁故主義」と訳される。いわゆる身びいきというやつだ。明日明後日の閉会中審査でも議論の中心になるのも、この「ネポティズム」にほかならない。
 安倍総理は、いわゆる派閥政治を踏襲しないまま、推されて総理大臣になった。ある意味で、人気者であったのだろう。しかし派閥の後ろ盾が希薄であるがゆえに、孤独なリーダーでもある。その振る舞いがどこか総理大臣というより大統領のように映るときすらある。
 孤独なひとは、畢竟「ネポティズム」に陥る傾向にある。これは無理もないことだと思う。だれでも自分が信頼をおいているひと、家族や親友や旧知の仲間でまわりを固めたいと考えるのではなかろうか。いつうしろから刺されるかもわからない状況にいるよりも、そのほうがずっと精神的に健全でいられる。
 トランプ大統領も金正恩委員長もさきの韓国大統領も、みな「ネポティズム」でまわりにひとを置いた。
 「ネポティズム」の度合いが強くなればなるほど、独善的になるだろうし、さらに進めば独裁に様変わりするかもしれない。
巨大な権力を掌握した者が感じる巨大な不安と重圧と、「ネポティズム」は実に相性がいい。でも、だからこそ注意深くなくてはならない。さもないと「ネポティズム」は、権力という陶酔から抜けられなくなる麻薬となることだろう。麻薬に溺れれば、まわりが見えなくなる。主観と客観の乖離が激しくなって、見当識を失ってしまう。十分に説明したはずなのに、なぜみながわからないのかがわからなくなる。

 安倍総理はかつて人気者であった。信奉してくれる仲間をブレーンにして、権力を集中させ、ときに強引ともいえる政治運営をしてきた。
 その「ネポティズム」の核にいる旧「成長の家」の活動家たちが、とりもなおさず掲げているのが「ミソジニー」であるのは、なんとも皮肉なことである。
 国民には見えるはずがないと思っていたその「ネポティズムとミソジニー」が、いまや総理大臣への不信感につながっている。
 「ネポティズム」が「信頼」であり、「ミソジニー」が「本来の家庭のありかた」であると思い込んだところに、大きな穴があった。
 もし仮に、この窮地を乗り越え、ふたたび高い支持率を回復したとするなら、そのときはずいぶんと立派な独裁国家になっていることだろう。

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