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「ムーンライト」

 観る前からあまり期待してしまうと、どうもうまくいかないことが多いようです。このところ映画でそれが続いていました。
 ずいぶんと公開を楽しみにしていた「ララランド」で、がっくりと肩を落とし、宣伝が過剰に名作だと謳っていた「クーリンチェ少年殺人事件」もあまりピンときませんでした。起死回生で出かけた「トレインスポッティング2」も、見てくればかりがいいアメリカの映画みたいになってしまって、最後まであのかっこよさに乗りきれなく、残念な思いが残りました。
 そんななか、これは観ようかどうしようか迷っていたのです。それくらい乗り気でなかった「ムーンライト」に、ガツンと一撃をくらいました。

 幾度となく反復されてきたはずのありきたりな話に、これほどまでに輝きを与える、その力とはいったいどこからやってくるのだろうと思わざるをえませんでした。その美しさにため息ばかりがでました。
 関わったすべてのひとたちは、完成した映画を観て、ここまでこの「ムーンライト」という映画が「光る」という実感を、一体どこで持ったのだろうかと思うのです。
 脚本の段階、撮影しながら、あるいは編集しているときに、その輝きを確信できたのでしょうか。おそらくすべてが完成しようとしていたそのときに、いろんなピースやさまざまなディテールが、なにか得体のしれない強い磁力で集められ、そのフィルムに焼き付けられたのではないだろうかと、勝手に夢想したりします。いい映画って、そういう人知を超えたものの所作が、かならずやまぎれているように思うのです。
 いまのぼくと「ムーンライト」のあいだで、なにかがピタリとはまったのでしょう。でてくるひと、シーン、背景、小道具、音、光、そのすべてにどうしようもなく心を奪われました。描かれなかったところ、語られないことの塩梅もじつによかったです。

 時間が映画のなかでちゃんと流れるのには、それを補う余白の誠実なる構築がどうしても必要です。語らないことで生まれる余白と余韻に、なんの噛み合わせの悪さを感じないとしたら、むしろそれが甘美な陶酔を招くとしたら、それはフィルムのひとコマひとコマを丹念に作り上げた、キャスト、スタッフ、この映画に関わったひとたちの真摯さと丁寧な手仕事の為せる業にほかなりません。
 マクロとミクロ。ディテールは物語を控えめに、しかしまた雄弁に語り、ひとつひとつのピースは全体を俯瞰するのです。あらためて映画という偉大なる総合芸術の力を思い知ります。

 この映画「ムーンライト」にでてくる人たちのことが、すべて愛おしく、身近に感じます。自分とは、育った境遇も、いまを取り巻く環境も180度といってもいいくらい違うにもかかわらずです。もっと観たい。もう一度会いたいと、そう思わせてくれる映画が大好きです。
 「リトル」と呼ばれた少年は、おおきくなって、かつて自分によくしてくれた大人「ファン」になるのです。それは子がいつの日か父親になるように、ごくごく自然のことのように描かれます。たくさんの語られなかったこと、映さなかった膨大な時間、そして世界はあたかもなにひとつ変わることがないかのように、ただそこにあります。
 たとえば、希望やら贖罪だとか、そういった体裁のいいなにかを身に纏う以前のからっぽの身体を、月明かりは、その淡い光で照らしてくれる。そしてそれはこのうえなく美しい。
 「ムーンライト」は、そんな幻想的な映画でした。
 

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