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死ぬ前までに食べたい100の美菓子 赤紫蘇で巻いた菓子



昔むかし中国に華陀(かだ)という有名なお医者さんがいたとな。その華陀の手にかかってなおらない病人はいない、といわれたほどだった。

ある時、蟹を食べて食中毒になり、死にかけた子供がいて、親から「なんとかこの子の命を救ってくだされ」と頼まれた華陀は、山道に植えてある紫色した葉を潰して子どもに食べさせたところ、その子が蘇ったため、村人たちはこの草を「紫蘇」と呼ぶようになったとな。

以来、中国の医師たちは、食あたりした患者の治療に、紫色の赤紫蘇の葉をすりつぶしたものを薬として与え、回復する者が続出し、やがて日本にも蘇りの薬草として、紫蘇を植えるところが増えたとな。

しかし、名医の華陀は後に、三国の魏を建国したという英雄、曹操(そうそう)の頭痛を治すために呼ばれた時、麻酔をしての開頭手術を提案するのだったが、「何ィ、ワシの頭を割って治すだぁ?そんなことが出来るわけがないだろう。おまえワシを殺しにきたのか」と怒った曹操に捉えられ、その場で処刑されてしまうのだった。

梅干しの発祥とされる国は2000年前の中国で、中国では紀元前から梅が栽培されており、梅を利用した食品や薬としての使用が古くからあった。

梅干しの原型とも言える梅の保存法は、古代中国で発達したとされ、日本に伝わり、独自の発展を遂げたと考えられている。

元々中国では、梅を塩漬けにし、発酵させることで「酸梅(すあんばい)」という食品を作っており、これが梅干しの原形であるとされた。

日本でも最初はただ塩漬けの梅で、奈良時代に仏教とともに伝来し、平安時代には貴族の間で、食用だけでなく、薬用としても珍重された。

平安時代に在位した村上天皇は、在位していた西暦960年(天徳4年の甲申年)に、京の都で流行った悪病で、天皇ご自身も病に倒れられたが、梅の塩漬けと昆布を入れたお茶で快癒したという話があり、甲申年の梅は病が去る、神が宿る梅、縁起が良い梅、と言われ、現在でも縁起物として珍重される。

さて、本日の表題の赤紫蘇を巻いたお菓子だが、赤紫蘇を漬けたものも古代から、保存食として食され、また薬用としても珍重されていたという。赤紫蘇漬けの方が梅干しよりも時代は古いらしい。

塩漬けの梅に赤紫蘇を混ぜて色付けするようになったのがいつ頃からだったか定かではなく、また全国にもいろんな言い伝えがある。

江戸時代に入り、梅が量産されるようになり、庶民の間でも梅干しが食べられるようになると、それぞれの家で、砂糖漬けにしたり、どちらも身体にいいから混ぜちゃえと、梅をしそ漬けにしたのが始まりという。

江戸時代にはコレラが大流行し、梅干しの殺菌作用でコレラが終息したともいわれ、一気に広まったようだが、餅を紫蘇で巻いて食べたら腹が痛くならないなどといわれ、紫蘇巻きの餅も食べられるようになったとな。

梅の名所水戸の銘菓「水戸の梅」は、偕楽園の梅をモチーフに、1892年(明治25年)に作られたと、1852年(嘉永5年)創業の亀じるしのホームページに書いてある。亀じるしは、それまで漬物の製造販売を主としており、明治に入ってから和菓子作りに注力している。

信州長野には、あんずの紫蘇巻きという甘酸っぱい伝統菓子がある。さらに、和歌山や岐阜にも紫蘇巻きのお菓子がある。

コロナがまた流行ってきたという。しかし、薬が足りないとか。家で養生しているほかないようだが、紫蘇巻きの餅でも送りたい。

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