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詐欺のような1周年

最後の投稿から約1年ぶりに舞い戻ってきたら、運営から”note1周年記念”のバッジを頂いた。
アカウント作りたての去年1か月間投稿したのを最後に、11か月ほどログインすらしなかった私にも1周年バッジをくれるんですね。有難く頂戴しておきます。

プロフィールに書いた通り、考えすぎて気にしすぎて思うように書けなかったから、もう人の目とかやめよう。これは私の持っているキャンパスノートだと思おう。好きに書け、自分。

高校卒業後、一度社会人となり、社会人枠を利用できないがために独学で入試を受け大学に入った私は大学で既に若干浮いていたけれど、大学卒業後も「ちょっと外れた」道を突き進んだまま今に至っている。
端的に言えば社会に属したくないのである。だからどうにかこうにか「正規」という位置づけを拒否し続けながら金を稼いでいる。特定の集団に組み入ることも、人と親密になることも、人に求められることも避けたい。

中学、高校とを経る中でうすうす感じていた、自分はたぶん世の中に馴染めないと。「ちゃんと出来ない」と。くそ真面目でいい子を装っていた自分から、長年抑圧してきた「いい子じゃない自分」をそろそろ解放しなければいけなかった。
けれど、そんなことをすればこれまで積み上げてきた周りからの高評価はあっという間に塵となり、期待の眼差しはもう私には向けられることはなくなるだろう。

じゃあ私っている意味あるのかな?承認されない私に価値ってある?

そんな風に他者からの承認欲求に既に雁字搦めになっていた私は、その当時結局上手に「悪い子」になることもできなかった。

そしてそんな自分は今も自分の中にしっかりと存在していて、隙あらば身を粉にして自分を他者に捧げようとしたり、自分のすべてを犠牲にすることで自己欺瞞的に自分を満足させようとする。
と同時に、「いい子じゃない」自分は、自分のために時間を使いたいし、嫌なことは嫌だし、自分の生を自分が握っていることを実感したいのだと、同じく自分の中で獣のように唸っているのだ。

そんな自分「たち」とうまく折り合いをつけるためには、私はこの距離感で社会と接するほうがいいんだろうな、と思い至った。

つかずはなれず、くらいの距離で。

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