【小説】Wonderwall

コロナ禍に書いた短い小説を引っ張り出してきて、手を加えました。
オアシス、おかえり!!!

ーーーーーーーーーー

Wonderwall

1

「母さんね、ヒーローになろうかなと思って」

「なんで」

「だってね、世の中、嫌な人っていっぱいいるじゃない。あんまりにも嫌なことする人ばっかりだから、良いことしても意味ないんじゃないかって考えるちびっ子たちが出てきてもおかしくないでしょ。募金しなさい、お年寄りには席譲りなさい、鹿島アントラーズを応援しなさいって言っても、聞く耳持たないかもしれない。そんなの嫌なの、私は。意味あるんだぞって証明したいのよ。だから」

「アントラーズを応援することは良いことなのかな」

「当たり前じゃない」

「そう」

 部活帰りで腹を空かせた僕は、とんかつにかぶりつくのに必死で、あまり真剣に母のヒーロー宣言を聞いていなかった。だから翌日の朝テレビを点けて、マント姿で滑空する母の姿を目にした時には面食らった。カメラに収められたその姿は、一見すると鳥か飛行機のように見える。でも、それにしては速度が遅すぎる。ぐいとズームすると、映っていたのは明らかに両手を前に突き出した母だった。ヘルメットのようなものを被り、口をほんの少し開けて、遠くを見るように目を細めている。運転席に座っている時と全く同じ顔がそこにあった。目線を遠くに合わせないと、ぐらついちゃうのよ。聞き飽きたセリフが頭をよぎる。撮影者だろうか、聞いたことない言葉で誰かが歓声を上げている。

「あ、これ私よ! やだ、お腹ちょっと出てるみたいに見えるじゃない。写真とか動画の写りホントに悪いのよね、私」

小顔ローラーを転がしながら部屋から出てきた母が嬉しそうにはしゃぐ。マントを持っているなんて知らなかったし、ましてや空を飛べるなんて初耳だった。よく見ると、マントには等間隔に折り目がついていて、花柄で埋め尽くされている。母の部屋にかかっているカーテンと全く同じ花柄。僕はテレビの画面を見つめながら、母に言った。

「あんまり無理しないでね」

呆れた顔で母は答えた。

「何言ってんの。無理しなかったらただのコスプレおばさんになっちゃうじゃない」

今では母はもういない。ヒーローになると言って4年経った頃、ふっと消えた。


2

「ほら、いい曲でしょ」

「声があんまり好きじゃない」

「何言ってんの、あんた、この声がいいんでしょうが」

 ヒーローになると言ってから数日経ったある日の晩、母は僕と妹をリビングのソファに座らせた。父がいた時の名残りで、つい左端の席を空けて座ってしまう。壁のフックに吊り下げられたBluetoothのスピーカーにスマホを繋ぎながら、「今からね、私のテーマソング流すからね」と呟いた。母にテーマソングがあるなんて知らなかった。そもそもテーマソングがある人間なんて、この世にどれだけいるのだろうか。僕にはなかったし、今だって思い当たる曲はない。多分妹も同じだと思う。

「これをね、こうでしょ、それで、よし、はい! いくよ!」

 咳払いから、その曲は始まった。優しいけど、どこかトゲのある声。慰められている気持ちにもなるし、突き放されているような気持ちにもなる。纏わりつくような歌い方が、何だかむず痒い。弦楽器の音が混じっていて、ふと小学校の音楽で習ったバイオリンを思い出す。楽器の才能が無い僕に無理やり演奏するよう言ってきた先生のことが、とにかく苦手だった。この歌を歌っている人は、音楽が好きなんだろうか。楽しんで歌っているようには聞こえない。伝えたい思いがあるけれど、それを表現するにあたって自分には歌という手段しかないから、仕方なく歌うことにした。そんな、どこか投げやりな印象を受ける。この人に文章が書けたなら、作家になっていたかもしれない。絵が描けたなら、画家に。でも選択肢としてそこにあったのは「歌う」という行為だけで、だからこうして歌っているのだろう。他の味が全部売り切れていたから、抹茶アイスを選んだ。そう言われている気持ちになった。外国でも抹茶アイスを売っているのだろうか。ぼんやり思う。
 ふと横を見ると、妹の琴は拍に合わせてコクコク首を縦に振っている。この頃の妹といえば、お遊戯会のミュージカルがよっぽど楽しかったのか、「琴ちゃんミュージカルさんになる!」とはしゃぎながら毎日のように歌っていた。
 ソファの左端にどすんと腰を下ろした母が、僕の顔を覗き込む。

「陸、あんた英語得意でしょ。Wonderwallってどういう意味か言ってごらん」

「そんな単語聞いたこともない」

「いいから」

「まぁ、『不思議な壁』、かな」

「違う。Wonderwallはワンダーウォールよ」

「ワケわかんない!」

「琴、うるさい」

「お兄ちゃんの方がうるさい!」

「喧嘩しないのあんた達」

 あんた達、大事なこと言うから良く聞きなさい。いい、Wonderwallはワンダーウォールよ。ここ、ほら、サビのとこ。あんたの訳だと「君が僕の不思議な壁だ」になるでしょ。琴の言う通りよ、ワケわかんないでしょうが。「君が僕のワンダーウォールだ」の方がウン十億倍しっくりくるでしょ。ワンダーウォールって何かって? 琴、あんた、いいこと聞くじゃない。でもね、母さんうまく答えられないや。私思うんだけどね、ひとりひとりにとってそれぞれのワンダーウォールがあるのよ。それは人かも知れないし、動物かも知れないし、物かも知れない。なんでもいいけど、とにかくあるのよ。少なくともね、私には、ある。お父さん。ここにいるか、いないかとかは関係ないのよ。お父さんの事思い出したらね、私すごいホッとするのよね。あんた達のお父さんは、私にとってワンダーウォールなのよ。もわもわした、ものすごく大きな毛玉みたいな。辛いことがあっても、ぼふっと身体を投げ出せば優しく包んでくれる。嫌なことがあっても、思い出すだけで次の一歩を踏み出す力をくれる。苦しい日々に自分が独りではないと思えることが、どれほど救いになるか。あんた達にはまだ分からないかも知れない。でも、いつか分かる日が来ると思う。私は、誰かのワンダーウォールになりたい。陸、琴、あんた達にはある? ワンダーウォール。早く見つけなさいよ。


3

 妹の舞台に招かれるといつも、なぜかこっちが緊張してしまう。リビングだろうと、舞台の上だろうと、楽しそうに歌い踊る姿は昔から変わらない。楽屋に挨拶に行くと、いくつもの花束が僕を迎え入れる。ふと花柄のカーテンを思い出す。

「琴、緊張してきた」

「おかしいでしょ。私が緊張するべきなのよ」

「いや、まぁ、そうだよね」

「ニュースでさ、お母さんが行方不明になったのは12年前の今日ですって特集してたよ。皆忘れてないんだね、お母さんのこと」

「空飛ぶマント姿のおばさんを忘れる人なんて、そうそういないだろうからね」

「お父さんとお母さん、見ててくれるかな」

「琴、忘れたのか。父さんは死んで、母さんは失踪したんだよ」

「あんた本当に最低」

「ここにいるか、いないかとかは関係ないよ」

「あ」

「頑張って」

ドアノブに手をかける。背中越しに、咳払いが聞こえる。

ーーーーーーーーーー

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?