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💎 唯信◆2024(令和6)年9月号 :九坊院より言の葉だより&和讃の時間【一々のはなのなかよりは  三十六百千億の  光明てらしてほがらかに いたらぬところはさらになし -浄土和讃-♦親鸞聖人】【一々のはなのなかよりは  三十六百千億の  仏身もひかりもひとしくて 相好金山のごとくなり -浄土和讃-♦親鸞聖人】❝心に慈慧の響きと平安を❞from from‟Song & BowzuMan”{北條不可思:法名:釋難思} 浄土真宗本願寺派()本山:西本願寺()僧侶/1981年得度♦シンガーソングライター



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{道化の涙は阿彌陀のなみだ♢物語の幕間に暗闇の詩を捨てる}
『詩は言に寺』…心身に深く響く味わいです。
​❝心に慈慧の響きと平安を❞
慈光照護
南无阿彌陀佛


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"Song & BowzuMan”
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愚螺牛{}
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♦The Dhammapada♦

『ダンマパダ』
『法句経』​​​​

​​実にこの世においては、​​

​怨みに報いるに怨みを以てしたならば、​

​ついに怨みの息むことがない。
怨みをすててこそ息む。​

​これは永遠の真理である

​​【ブッダの真理のことば・感興のことば】
(中村元訳・岩波文庫)P.10より​​



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​​​​​​​​​​​​​​🔶​心に慈慧の響きと平安を​🔶​​

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「​新しい領​​​​​​​​​解文(浄​土真宗のみ教え)」の幻影 ​​​​​​​​​​
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​(西本願寺蓮如フェスタ1998年)​

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♦​唯信:九坊院より言の葉だより​♦

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「Silk Road」 ―敦煌― 撮影:北條大慈 PhotographyCopyright © DAIJI  HOJO JAPON

《唯信:九坊院より言の葉だより》


《和讃の時間;Time of WASAN 》
唯信◆2024(令和6)年9月号

一々のはなのなかよりは   
三十六百千億の      
光明てらしてほがらかに  
いたらぬところはさらになし 

{}-浄土和讃-♦親鸞聖人{}


一々のはなのなかよりは
三十六百千億の
仏身もひかりもひとしくて
相好金山のごとくなり

{}-浄土和讃-♦親鸞聖人{}


唯信◆2024(令和6)年9月号
謹みて 有縁の皆様におかれましては、お念仏ご相続の事と拝察申し上げます。台風に計画の変更を余儀なくされる方もおられると思います。台風や大気のうねりに身体が影響を受ける方もおられる事でしょう。
 日々の雑念に溺れそうですが、どんなに暗い曇天であっても『無明(むみょう)』ではありません。決して心の瞳を閉じてはならないと、気持ちを新たに致します。
     *
一々のはなのなかよりは   (いちいちのはなのなかよりは)
三十六百千億の       (さんじゅうろっぴゃくせんおくの)
光明てらしてほがらかに   (こうみょうてらしてほがらかに)
いたらぬところはさらになし (いたらぬところはさらになし)


【意訳】浄土にあるそれぞれの花の中からは、六つの光が織りなす無数の光が明るく輝き、ひろく世界を照らして、至り届かないところはどこにもない。
六つの光…青・白・玄(くろ)・黄・朱・紫の六色の光のこと。
(出典『三帖和讃』浄土真宗本願寺派編)
 
一々のはなのなかよりは   (いちいちのはなのなかよりは)
三十六百千億の       (さんじゅうろっぴゃくせんおくの)
仏身もひかりもひとしくて  (ぶつしんもひかりもひとしくて)
相好金山のごとくなり    (そうごうこんぜんのごとくなり)
【意訳】浄土にあるそれぞれの花の中からは、六つの光が織りなす無数の光とともに無数の仏がたが現れ、そのおすがたはまるで光り輝く黄金の山のようである。             (出典『三帖和讃』浄土真宗本願寺派編)
 

 お浄土に咲く花といえば蓮の華です。その花びらに多彩な色があり、光となって放たれているというお喩えです。百千億というのは無数無量(むしゅむりょう)という数えたり測ったりできない果てなく放たれている光明を表すために仮に数量をあてて表現されていますが、これも比喩として味わいたいと考えます。私たちの目に六色の光が見えるわけではありませんが、至り届かない所が無い光明は、この「私」に確かに届いている仏智の光であります。
 その光明を『ほがらかに』と表現された親鸞聖人さまのお気持ちは、いかなるものであっただろうかと、想像するだけで本当に楽しいのです。
「きよらかに」「すずやかに」「安楽に」…等々思い浮かびます。とはいえ、親鸞さまが、岩波国語辞典に「ひらけて曇りなく晴れやかなさま」とある意味で選ばれたお言葉であるなら、「私」に届いて下さる阿弥陀如来さまの光明は、まるでどんなに苦しく、寂しく、辛く、身もだえするほどの痛みに耐えかねていても、晴れやかに届いているのですよとおさとし下さっているようです。「悲しみも喜びもお慈悲の中」だからこそ、自分自身は真っ暗闇に落ちて身動き出来ない煩悩具足の泥凡夫ですが、その「私」をこそ、弥陀の光明は一瞬の休みもなく『我をたのめ必ず救う』と照らし続けて下さいます。深い驚きにも似た醍醐の喜びです。
 この二首の御和讃を歌う時、親鸞さまが桜吹雪を見上げる姿を思います。季節を送り、季節を迎える折々に頭上に咲く花、群生する花、石垣の隙間に静かに揺れる花を見つめながらお浄土に咲く華に念いを馳せられ詠まれたのですかと、お尋ね申し上げる気持ちになります。お浄土を詩響で綴る恩徳讃歌は有難いばかりです。

合掌称佛 
                          住職 北條不可思

♦唯信:九坊院より言の葉だより♦

このメッセージレターは、北條不可思が住職をつとめる

浄土真宗本願寺派
眞信山 蓮向寺

有縁の方々にお送りいたしました通信です。


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