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★父のホロスコープ

父の四十九日の法要が終わった。菩提寺でお経をあげてもらい、墓地でもお経をあげてもらい、納骨してやっとひと段落。…なんだけど、まだ名義人変更とか相続とか手続きに時間がかかりそう(そこらへんは弟に丸投げ)。
実家を出て四半世紀。私の知らなかったことがいろいろ出てきて、驚くことも多い。

父の両親(つまり私の祖父母)は地元で百姓をやっていた。父はそれを手伝いながら中学を出て地元の工場に就職した。そこで10年働き、大手メーカーに転職後、定年まで勤めあげた。定年までの数年間は本社勤務で、たぶんそこで働いている人で中卒なのは父だけだったんじゃないかと思う。
退職した後は百姓をやって(いやもともと休日は畑仕事やってたんだけど)、作った野菜を庭先で売ったりもしていた。自治体の農業祭りみたいなイベントにもよく参加していた。
父を一言で形容すれば、〝働き者〟だと思う。テレビを見ながらゴロゴロしている、なんて姿はほとんど見たことが無かった。働いて働いて擦り切れて死ぬ、私はそれが理想なのだが、それを実践した人だったと思う。

ということで、父のホロスコープを出してみた。ハウスは分からないし、個人情報云々があるのでざっと。
太陽は牡牛。生まれた時間は分からないけれど、月は天秤。
地の要素が5個もある。地べたに縁があるのはそのせいか。地道にコツコツタイプだ。
目につくのは蟹冥王星と山羊木星のタイトなオポジション。まあ、これは同級生ならだいたい持ってる的なアスペクトだろう。そこに調停で牡牛水星。もうひとつ調停で魚土星(これが働き者アスペクトだろうな)。そして牡羊金星とのTスクエア。アスペクトを線でつなぐと山が三つ重なっているように見える。

父は普段は質素倹約な人なのだが、海外出張や旅行に出ると土産をどっさり買ってきたものだ。家を直したときも、ローンは使わず現金を何回かに分けて直接大工さんに払ったらしい。お金の使い方に極端なところと、こだわり(大盤振る舞い的な)があった。

父の経歴だとエンジニアなんだろうけど、職人気質というふうではなく、コミュニケーション能力が高い人だった。話好きで、前述の農業イベントでの商売も楽しんでいたらしい。
海外出張にはよく行っていたが、だからといって外国語に堪能だったというわけではない。なにしろ中卒だし、そのうえ家の畑仕事の手伝いで学校を休むこともよくあったという。会社の同じフロアで英語ができないのは俺だけだ、などとよく言っていた。英語が話せたら、駐在員にされてしまうとも言っていた。
そんな父でも現地の人とのやりとり(もちろん通訳する人がいたはずだが)をうまくこなしていたらしい。百姓もやっていたから、トルコに行ったときに現地の畑を見てあれこれ話したそうで。別の機会に出張に行った同僚の話では、あいつは今回は来ないのか?と現地の人に言われたらしい、と嬉しそうに話したことがあった。
インドネシアでは現地の人から肖像画をプレゼントされた(娘の私でも描いたことがないのに)笑。
80代半ばでの葬儀に、100人を超す弔問客が列を作ったということが父の社交性をよく表していたと思う。
…父はこうなのに、どうして娘(自分)には受け継がれなかったかね。

◆◆◆

ここで占星術師の向真希さんのツイートを引用する。

人生にはいろいろな峠があります。t土星による7年おきの生き方矯正はありがたい小さな峠。30代後半中年の危機=nt冥王星90度は人生後半へ向かう試練の峠。80代半ばでむかえるnt冥王星180度は、いわば過酷な命の峠。男性は文字通り身体的に、女性は主に精神面で、ここを超えるのはなかなかの大仕事。

まさに父はnt冥王星180度のタイミングで彼岸へ渡っていった。もともと木星冥王星オポジションの人だから、出生の木星に現行の冥王星が乗っかったというのもある。これ以前に天王星リターンがあって、それも人生の分岐点だと私は思っていたので、父のことは気にはかけていた。

ホロスコープを見て気づいたのは、父と私の出生の木星はオポジションの位置にあるということ。

以前この記事で書いたのだが、今現在の私の出生木星と現行冥王星のオポジションが〝実家がらみで何かある〟ということだったのだと思う。
私の木星はもともと4室だからね。まあ、過保護だわね。30代手前まで実家にいたからね。夜遅く帰宅しても、父は起きて待ってたからね。結婚してからも野菜をいっぱい送ってくれたしね。

そういえば、先日ゆうパックの配達の人が間違えてうちに荷物を届けにきたことがあった。送り状の宛名を見たら部屋番号は合っているけど、建物名が違う。うちじゃない…とつぶやいたら「あー!間違えた!」と。重そうな段ボール箱をかかえて配達の人は帰っていった。送り状の品名には〝野菜〟とあった。
実家からはよくそうやって野菜が送られてきたので、もう送ってやれないよ悪いな、という父からのメッセージなのかと思った。こじつけ過ぎ?そうかもね。

最晩年の父は耳が遠くなって、コミュニケーションがとりにくくなってしまった。それに加えて例のウイルスがはやってしまったせいで、私もほとんど帰省できなかった。もっと話をしておけばよかったなーと残念に思う。でも、衰えた父の姿を見ることもなかったので、それはそれでよかったのかなーとも思う。

私の稚拙なホロスコープ読みじゃ説得力が無いだろうけど。父はもういろいろやり切って気が済んで、不自由な体を抜け出ていったんじゃないか、そんな気がする。

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