所謂『宗教』はなぜ間違える?論
宗祖の教えが『正確に伝承されない原因』の一例
あくまで『一例』にすぎないので留意されたし。
例えば仏陀。
彼は森羅万象を『観察する』事で【自然の摂理】【法則】【概念の不正確さ】等を『悟る』事に成功した。
だが『悟り』を
【言語化すると《悟れなくなる》事も同時に悟った】
なぜなら『言語化できる事象』と『言語化できない事象』があると【悟った】からである。
【言語化できる事象】
『リンゴ』『犬』『カミナリ』『地震』コレ等は【目に見る事が可能で《体験》を伴う】ので【本質からブレが少ない】
【言語化できない事象】
『魂』『あの世』『無』『輪廻転生』コレ等は【目に見る事が不可能で《体験》を伴わない】ので【本質的ではない】
つまり、『言語化できない事を【言語で伝える】事は不可能である』
故に、【体験を伴わせ説明するより手段が無い】のである。
【体験を伴った諸概念の本質的理解】=【悟り】である。
ただし【体験】すらも『ニセモノである場合がある』
目から得た情報は【必ずしも正確な情報では無い】
耳から得た情報は【必ずしも正確な情報では無い】
鼻から得た情報は【必ずしも正確な情報では無い】
舌から得た情報は【必ずしも正確な情報では無い】
身体から得た情報は【必ずしも正確な情報では無い】
のである。
なので最悪、『不確かな概念を偽の体験で理解する』事になる。
そうすると【悟れなくなる】のである。
例:【一定のリズムを繰り返し聞き続けると脳は麻痺する】という【体験】を《不確かな説明》である『霊的体験です』と説明されると【お経を唱え続ける事で霊的体験おこる】
脳の麻痺(トランス)が起こらなかった人は確信しないが
【トランスを少しでも感じた人は確信に至る】
これらは全て【結果】(不確かな概念)から【原因】(不確かな概念)を得ている為に【因果が逆転している】のであるが『本人には判らない』。
なぜなら【概念】を元に思考する事が【正しい】と確信しているから。
全ては【原因】(確かな事実)から【結果】を求めなくてはならない。
つまりは【自分の身体に起きた事象】ではなく【自然物から得られる普遍的法則】である。
それは【概念のない世界観で自然界を観察する】事で得られる。
目、耳、鼻、舌、身体で【体感した事】が【本当に事実であるか】確信するまで【観察をする】のが【悟りへの道】である。
なので『仏陀はこういわれた』という【概念の伝達】はその性質ゆえに『僕はこう考える』『いや私はこの様に思う』という分化(概念の希薄化)を始めてしまい【宗祖の教え】はその本質を見失う。
言葉で考えてはいけない。体感してその本質を理解するのである。
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