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彩りの湖

木漏れ日の陽が優しく差し込む森林公園。
ゆっくりと、景色を見ながら、歩を進める。
最寄り駅から徒歩30分というアクセスの悪さからか、この公園は人の出入りが少ない。
人の喧騒から解放され、風の音、虫の鳴き声が静かに反響し、時間の流れを忘れさせてくれる。
私にとって、忘れることのできない、思い出の場所だ。

涼しい風が吹いた。
麦わら帽子を押さえる。白いワンピースの裾がひらひらと揺れる。
優しさに包まれるような心地良さを感じた。

やがて、公園の一番奥。
宝石のようにキラキラと、美しい青が広がる、湖へ辿り着いた。

光輝く水へ指先を入れる。
ひんやり冷たく気持ちがいい。夏の暑さを忘れるようだ。

ふと、視線を感じた。
湖から少し離れた場所に、先客がいた。
大きなキャンバスを広げた、小柄な男の子が、私を睨んでいる。

「ごめんなさい。邪魔しちゃった」

小走りで男の子に駆けよった。
「いいよ。どうせうまく描けないんだから」
そう呟いた彼は、手に持ったパレットを片付け始めた。

どんな絵なのか気になった私は、こっそりキャンバスを覗き込む。

――言葉が出てこなかった。

人はあまりにも感動すると、それを言葉にすることができない、という話は本当だったらしい。
推定小学生の彼が描いたそのキャンバスには、現実とまるで区別がつかない湖が広がっていた。
いや、現実よりも、あたたかみを感じさせる色彩になっている。
彼の優しく、繊細な性格が、想像できた。

「ちょっと、お姉さん。勝手に見ないでよ!」
「……すごいね」

キャンバスを引っ込めようとした彼の手が止まった。
彼の眼が、まっすぐに私を見つめる。
その目は、すがるような、助けを求めるような、哀しい目だった。
なぜ、そんな目をするのだろう。君はこんなにも素晴らしい絵を描けるのに。

「お姉さん、本当にそう思う?」
「うん、思う」

この絵の素晴らしさを言葉にできない自分がもどかしかった。
「こんなの模倣だよ。練習すれば誰だって書ける。俺、どんな絵を描きたいか、わかんなくなっちゃった」
「……そう、なんだ。難しいんだね」

それきり無言になってしまった。
なんて言葉をかければいいのかわからない。

蝉の声が空しく響き渡る。

(――退屈な女だよな――)
彼氏だった人の言葉が溢れてきた。

この公園で両想いになれた。その残り香に、誘われるように、ここに来てしまった。
いつだって、自分の素直な気持ちを、ちゃんと言葉にしてこなかった。

私は――そんな自分を変えたかった。

「君の好きなものはなんですか?」
「え?」
「君が本当に書きたいものは、なんですか?」
「だって、それじゃコンテストの内容にあわないよ……」
「そんなのいいから! 君の本当の絵を、私に見せて」
「……いいの?」
「君には才能があるよ。見たいんだ。だめかな?」

憑き物が落ちたかのように、彼の表情が晴れやかになっていく。
純粋に絵を描くのが楽しい、年相応の少年。
それが、本当の彼なのだと、そう思える笑顔だった。

「じゃあ、俺、お姉さんを描きたい!」



子供時代の作品集を開いた。
未熟だった頃の自分の絵に苦笑する。これは世に出せないな。修正したい。
さらにページをめくる。
あー、そうそう。模倣に走ってた時期もあったなぁ。画家を目指すの諦めようと思ってたっけ。

一枚の絵に、手が止まった。

麦わら帽子に白いワンピース姿の女性が、花のような笑顔を向け、あたたかい眼差しを向けていた。
名前も知らない、一度会っただけのお姉さん。

彼女に、勇気をもらえた。
自分の絵で勝負することから逃げていて、いつも一人で苦しんで、誰も認めてくれなくて、心細かった。

彼女のおかげで、今の自分がある。

物思いにふけるのを阻止するように、無遠慮にインターホンが鳴った。
せっかちな担当さんのお出ましだ。
「先生、取材の時間です。前に車用意して待ってますので!」
「はいはい、いま、行きますよっと」

麦わら帽子を手に取る。
少しサイズの小さい、年期のこもった麦わら帽子を、頭に乗せた。

今年の夏も、暑くなりそうだ。

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