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信長公記(12)深田・松葉両城を奪い返す

 天文22年(1553年)8月15日、清州の坂井大膳・坂井甚介・川尻与一(秀隆)・織田三位らが謀議、松葉の城へ駆け入って、織田伊賀守の人質を取り、また松葉の城の並びの深田というところに織田右衛門尉(織田信次。信秀の弟)がおられたのを、これまた押し伏せて、両城ともに手に入れた。

 坂井大膳・甚介・川尻秀隆・織田三位は清州織田家(織田信友)の家臣。松葉城の織田伊賀守、深田城の織田信次(信秀の兄弟)を人質にとった。(信長と対立したことを意味する)

相関図

 人質は厳重に監禁し、敵対の意志を明らかにした。

 織田信長公はこの時19歳。このことをお聞きになり、8月16日の明け方には那古野をお立ちになり、稲葉地の川岸まで軍勢を出された。
 守山からは織田孫三郎(信光、信秀の弟)も駆けつけ、松葉口・三本木口・清州口の三方へ手分けをしてから、稲葉地の川を渡り、信長公・信光は一手になって、海津口へ攻めかかった。

 信長公は8月16日の朝8時ごろ、東へ向かって攻めかかり、数十分の間火花を散らして激しく戦われた。信光の抱えの者、小姓あがりの赤瀬清六という数度武功をあらわした腕に覚えのある男は、先を争って、坂井甚介と渡り合い、しばらくの間激しく戦って討死した。

 ついに清州衆が討ち負けて家老の坂井甚介は討死。その首は中条小一郎・柴田権六両名が相討ちとなった。
 このほかに討死したものは、
 ・坂井彦左衛門
 ・黒部源介
 ・野村(与市右衛門)
 ・海老半兵衛
 ・乾丹後守
 ・山口勘兵衛
 ・堤伊予
 をはじめとするそうそうたる武者50騎ばかりで、枕を並べて討死した。

 松葉口へは、20町(約2km)ばかり進出、砦の外郭を囲み、敵兵を追い入れて、真島の大門崎の行き止まりのところで敵が支えるところを、朝8時ごろから正午ごろまで戦った。
 数時間にわたる矢軍やいくさで清州方に負傷者が多数生じ、無人になって退くところを赤林孫七・土倉弥介・足立清六がまた討たれ、敵は本城へ引き上げた。

 深田口の方面では30町(約3km)ほど進出し、三本木の町を囲んだ。これといった要害のないところであったから、瞬く間に追い崩し、伊藤弥三郎・小坂井久蔵をはじめ屈強の侍30余人が討死。
 かくして信長公は深田・松葉の両城へ味方の軍兵を差し向けられた。

 その結果、両城とも降参、敵は城を明け渡し、清州へ一手にまとまって撤収する。信長公はこれより清州を封じ込め、田畑の作物を刈り取らせこうして城の取り合いが始まったのである。

  この合戦を、萱津の合戦という。

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