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信長公記(14)斯波義統、自害

 天文23年(1554年)7月12日、若武衛様(斯波義銀しばよしかね)のお供をして、屈強の若侍がみな川狩りに出掛け、城内には老人がわずか残っているだけであった。
 「在城の者は誰々である」と指を折って数え、今こそよい折であると、坂井大膳、河尻秀隆、織田三位らは談合を遂げて、どっと四方から押し寄せて武衛様の御殿を取り巻いた。
 表広間の入り口で、何阿弥とかいうご同朋衆(僧形の取次役)が切って出て働くこと比類がなかった。

 坂井大膳・川尻秀隆・織田三位は清州織田・織田信友の家臣。
 斯波氏(家臣の梁田・那古野)が信長公を頼ったことに腹を立てた清州織田家が斯波家を攻めた、という流れ。

 また狭間(城壁の窓)を守る森刑部丞もりぎょうむのじょう兄弟も多数の者に傷を負わせたが、討死した。首は柴田角内が二つともとった。裏口では柘植宗花という人が切って出て比類のない活躍をした。
 四方の屋根から、弓の衆が矢をさし取り、引き詰めて散々に射立てるので敵わず、御殿に火をかけ、ご一門の名のある人々数十人が切腹された。
 高貴の侍女たちは堀へ飛び込み、渡り越えて助かる者もあり、また水に溺れて死ぬ者もあり、哀れな有様であった。
 若武衛様は川狩りからそのまま湯帷の成り立ちで、信長公をお頼りになって那古野へお出になった。そこで信長公は200人扶持を給し、天王坊にお住まわせになられた。
 主従とは言いながら、武衛様の道理の立たないご謀反を思い立たれたので、仏天の加護もなくこのように浅ましくあっという間にお亡くなりになったのだ。

 斯波義統の子ども・斯波義銀は信長によって200人の兵を借りて、天王坊に匿われた。

 若君をもう一人毛利十郎(敦元)が生け捕りにして那古野へ送り届けてきた。御自滅と言いながらも天道は明らかで、そら恐ろしい次第である。
 城中で日夜武衛様のそば近く心から尽くした人たちは、ひとたびは憤りを発したけれども、誰もかれもが家を焼かれ、食糧・普段着のも事欠き、まこと難儀な巡りあわせであった。

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