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Ⅰ 三河支配の成立 #1 三河松平氏と竹千代(4)

尾張への人質

 天文15年(1546年)10月には、今川氏は今橋城の戸田宣成のぶなりを攻め、11月15日に攻略した。
 「駿河勢と岡崎勢と今橋(豊橋)へ押し寄せ合戦す」とあるので、松平氏も今川義元の要請によって参戦したものとみられる。

 天文16年(1547年)になると、尾張の織田信秀が三河に侵攻して安城城を攻め、岡崎城に迫るという事態を迎えた。

松平家の領土が織田家によって奪われていく。勢力の大きい今川家につくか、距離の近い織田家につくか…。

どちらについても滅ぼされるかもしれない…。
家康の父、松平広忠の立場はとても難しいものであった。

 安城城を落とされたことは、松平氏にとって大きな打撃であり、松平氏一族えある忠倫ただみち清定きよさだをはじめ、家臣の中にも織田方となるものが現れた。広忠は自力では織田信秀に抵抗できなかったため、今川義元に支援を要請した。義元は支援にあたって、嫡子・竹千代を人質に出すことを要求し、広忠はやむなくこれに応じた。

この竹千代は、後の徳川家康。弱小大名の末路を一直線に辿っている。

 こうして、6歳になった竹千代は駿府に送られることになり、8月2日に岡崎を出発した。これに付き従った者は28名であったといわれる。
 ところが、三河湾から田原で上陸し、それより陸路で駿府へ向かおうとしたところ、継母である真喜姫の父・戸田宗光らの裏切りによって、こともあろうに尾張の織田信秀のもとに送られてしまった。

 信秀はさっそく竹千代を楯に広忠に帰属を迫ったが、広忠はこれに応じようとしなかった。田原戸田氏がなぜ、裏切ったかは定かではない。
 「三河物語」によれば、永楽銭1000貫で竹千代を信秀に売ったという。
 義元は直ちに太原雪斎や天野氏らを派遣して、田原城を攻撃。9月5日は激戦となり、天野・松井・御宿氏らの戦功を賞した義元の感状が残されている。まもなく田原城は攻略され、戸田氏は滅亡した。

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