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Ⅰ 三河支配の成立 #3 三河一向一揆の展開(5)
一揆と徳政令
徳政が行われる契機は、「自然災害」や「代替わり」などもあったが、戦乱に関わって出されたものが圧倒的に多かった。
徳政には2つあった。
①家臣に給恩の一種として与えられる個別徳政
②国・地域単位で一斉に施行される惣徳政
①にはさらに
・最前線での城詰など、経済的に疲弊した家臣を救済する+自らの軍事的基盤の維持を図ろうとする徳政
・離合集散する領主層を懐柔することで、戦況を有利に導こうとする利益誘導策としての徳政
家康公は、永禄6年(1563)から翌年にかけて、利益誘導策としての徳政を敷いた。
徳政の適用範囲は
家中全体から家臣個人のみへ、
適用対象も債務全体から借米銭のみへ
と縮小・制限されていく傾向にあった。
一向一揆の厳しい対立→戦況の好転→和睦の兆候
という戦況の変化と密接に関連していた。
水野信元との書状には、「深溝米銭旧借付而」とあり、和睦後の徳政適用による混乱解消のため、妥協的措置(深溝(家)に、米銭を貸し付けたこと)がとられたが、これは松平氏の権力の未熟さ・脆弱さが表れていた、といわれる。
三河一国の統一を進めていた当時の家康にとって、一揆で生じた領国内の矛盾・混乱は早急に克服すべき課題となった。
岡崎宿老たちの談合によって、永代地を除く債務は元本のみの返済ですますこと、その返済も翌年に繰り延べること、という妥協的措置がとられることになった。
この措置が、「双方の御ため、ご一国の御ため、かたがた持って「家康も祝着申すべく候」と言われているように、まさに三河統一と領国内の安定を優先させた対応でもあった。
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