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Ⅰ 三河支配の成立 #3三河一向一揆の展開(3)、(4)

一揆の構成

家康家臣団にも、門徒は多かった。渡辺守綱・政綱らをはじめ、渡辺氏ほぼ一族は一揆方に加わった。

石川・本多・内藤・鳥居氏らは二分化。

家康方についた多くは、早くから昵近じっきん(親しくして近づく)していた者、一族の中では上流の者が家康方についた。

一揆方に属したのは、門徒武士ばかりではなかった。
永禄4年9月に一度降伏した吉良義昭が一揆を契機に東条城に入った。

八ツ面城には荒川義広

六栗城には夏目吉信がそれぞれ立てこもった。

一揆方として最後まで抵抗した者に、上野城を拠点とした酒井忠尚がいた。
酒井一族は本願寺門徒ではなかったが、忠尚は対今川断交反対の中心人物だったため、外交政策の転換に伴う家臣団内部での権力闘争敗北による序列低下を不満として、一揆方に加わったと推察。

松平庶家では、桜井の家次、大草の七郎らが一揆に加わった。

一揆の展開と敗北

家康側優位で進んでいった。

永禄7年2月になると、一揆側から和議。背景には、一揆側が度々の合戦で負け続けた厭戦気分がまん延したことによる。(松平記)

家康側も三河の平定・安定化を急ぐ必要があった。

大久保忠俊が仲立ち、蜂谷半之丞が和議申し入れ。

水野信元の和睦勧告もあったと言われている。

2月末ごろ、起請文の取り交わし。家康は一揆参加者の赦免や寺内の不入特権の保証などを約束したが、守られることはなかった。

一揆方についた武将
渡辺守綱・直綱は赦免。
大草松平(七郎)・荒川義広・吉良義昭らは三河を去る。
本多正信・正重兄弟、鳥居忠広、渡辺秀綱・真綱ら追放。

三河三カ寺(本証寺・勝蔓寺・上宮寺)改宗。拒否すると寺内を破却した。

上野城の酒井忠尚は9月になると敗れ、駿河へ逃げ延びた。

一揆敗北の原因は-
目的があいまいだった。(戦略がなかった)
「三か寺を大切に存ずる」ということで、不入権侵害に対して反発し、偶発的に起こった一揆に過ぎなかったという根本的な限界がある。

そもそも、門徒武士たちの多くが家康が出てくれば逃げる、という有様では到底勝てるはずはなかった。

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