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Ⅰ 三河支配の成立 #1三河松平氏と竹千代(3)

広忠と竹千代の誕生

 その当時、清康は25歳、嫡子千松丸(広忠)はまだ元服前の10歳に過ぎなかった。
 清康が築いた領国支配の体制はたちまち瓦解し、岡崎城には桜井松平家の信定(清康の父の弟)が入った。
 広忠は追放され、阿部定吉に守られて伊勢国へと逃れた。(一説には篠島とも)

 広忠は天文5年(1536年)3月に遠州縣塚(磐田市)、8月に今橋(豊橋市)、9月に室城(西尾市)に入った。
 しかし、信定に攻められて10月には今橋まで退き、ついで今川義元を頼ることになった。
 今川氏では、1536年3月、当主の氏輝と弟・彦五郎とが同時に死去して家督争い(花倉の乱)が起き、6月に兄の玄広恵探げんこうえたんを破って、家督を継いだばかりの時期であった。

 天文6年(1537年)6月、広忠は岡崎帰城が実現した。
 岡崎家臣の多数を味方に引き入れることに成功したからであるが、今川氏の後ろ盾があったこと、叔母婿である東条吉良持広の支援があったことなども力になった。
 12月、広忠が12歳で元服した際の加冠の役は吉良持広で「広」の一字をもらって、「広忠」と名乗ることになった。

 天文11年(1542年)12月26日朝の4時、岡崎城内で一人の男児が誕生した。のちの徳川家康である。
広忠17歳、於大(水野家当主水野忠政の娘)15歳の時であった。
 しかし、二人の婚姻関係は長く続かなかった。今川氏と織田氏の対抗関係の中にあって、今川氏の庇護下に置かれていた広忠には、独自の判断による対応は許されなかったからである。

 天文12年(1543年)に、広忠の叔父にあたる三木家の松平信孝が老臣衆に排除され、やむなく織田信秀に通じたため、追放されてしまった。
 7月、於大の父・水野忠政が死去し、跡を継いだ子息・信元が織田方に走ったため、広忠は翌天文13年(1544年)、於大を離縁した。いずれも、今川氏を憚っての対応であった。

 親の行動は子に似る、と言いますが、家康は妻とその子供を信長の命で自害させます。家康の父・広忠は、情勢が変わると、あっさりと於大を見限ります。
 今川方に配慮して、とあるのでなんとなく父と子で似た考え、行動を起こすな、と感じました。


 その後、3歳の竹千代を養育したのは、祖父清康の姉於久(隨念院)であったという。なお、広忠は翌天文14年(1545年)に田原城の戸田宗光の娘・真喜姫を後室に迎えた。
 於大は阿久比城の久松利勝に再嫁し、のちに3男4女をもうけた。

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