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信長公記(15)柴田勝家、清州勢を打ち破る

 天文23年(1554年)7月18日、柴田勝家が清州へ出陣。足軽衆として安孫子右京介・藤江九蔵・太田牛一・木村源五・芝崎孫三・山田七郎五郎といった人たちが加わった。

 信長公記の筆者・太田牛一の名前がここで初めて出てきた。この時、柴田勝家はどちらについていたのだろう。(信長?それとも弟の信行?)

 清州勢は三王口で攻め合ったが、信長公方は敵勢を追い上げたので、清州勢は乞食村で支えることができず、さらに後退して誓願寺の前で防戦したけれど、ついに町口の大堀の中へ追い込まれてしまった。

 乞食村とは、現在の春日井市。清州勢とは、清州織田家のこと。織田信友勢。

 川尻左馬丞・織田三位・原殿・雑賀殿らが切ってかかり、二、三間(4~5m)を隔てて叩き合いをしたが、信長公方の槍は長く、清州勢の槍は短いので、次第に突き立てられた。
 しかしながら一歩も退かず奮戦し、討死した人々は、
 ・川尻左馬丞
 ・織田三位
 ・雑賀修理
 ・原殿
 ・八板 ・高北 ・古沢七郎左衛門 ・浅野久蔵
など優れた武士30騎ばかりに及んだ。

 武衛様(斯波義統しばよしむね)の家来の由宇喜一はまだ若年の17,8歳であったが、湯帷のままで乱入し、織田三位殿の首を取った。信長公のご称讃はひとかたでなかった。
 武衛様が逆進を思い立ちにあったことであるとはいえ、三位殿らが織田家の父祖以来の主君・武衛様を殺し申した因果は明白で、武衛様の死後7日目というのに各々討死した。
 まことに天道に違わぬ恐ろしいことである。

 安食(あじき)の合戦。信長公が考案した長槍が功を奏し、勝利に導いた出来事。由宇喜一という者が功績を挙げたものとして名前が出てきているのが印象的だった。(初めて聞く名前だったため)

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