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信長公記(4)信秀、美濃国へ乱入

 信秀は国中に援軍を求められ、ある月は美濃国へ出陣、またその翌月は三河国へ軍勢を出される、という有様だった。
 天文16年(1547年)9月3日、尾張国の将兵の支援を乞い、美濃国へ乱入なされ、あちらこちらに火を放って、9月22日、斎藤山城道三の居城・稲葉山山下の村々に押し寄せ、焼き払って、村の入り口まで攻め込んだ。
 すでに日も傾き、16時頃になったので、兵を引き上げられ、諸方の軍勢が半分ほど退いたところへ山城道三勢がどっとばかり切りかかってきた。
 しばらく支えていたが、兵の多くが崩れたってしまったので、支えることができず、
 ・織田信康(信秀の弟)
 ・織田因幡守(織田達広、信秀と同等で下4郡の一部を統治)
 ・織田主水正もんどのかみ
 ・青山|与三右衛門《よそうえもん
 ・千秋せんしゅう紀伊守
 ・毛利十郎(敦元、毛利新介の父?)
 ・寺沢又八(家老)
 ・毛利藤九郎
 ・岩越喜三郎
 をはじめとして、尾張勢50人ほどが討ち死にをした。

 織田信秀(信長の父)は、小豆坂の戦いに続き、美濃の国侵攻(加納口の戦い)でも敗れ、領土拡大に失敗したのです。

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