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信長公記(6)信秀、大垣城を救う

 (天文16年、1547年)11月上旬、古渡の備後守(信秀)へ、斎藤山城道三が大垣城を近々取り囲み、攻め寄せたとの注進がしきりにあった。それならこちらからも出で立とうと、11月17日、信秀は敵の後方から攻撃しようとしてまた諸将に支援を頼まれ、木曽川・飛騨川という大河を船で超え、美濃国へ乱入なさった。


 竹が鼻(羽島市)に放火し、あかなべ口(岐阜市)に出撃して、あちらこちらに火をつけ煙をあげられたところ、斎藤道三はびっくりして攻撃の手を止め、井口城(稲葉山城)へ引き上げてしまった。

 11月20日、大垣城救援の留守中に尾張領内の清州衆が信秀の古渡城へ軍兵を出し、付近に放火し、敵対行動に出た。このようなところに信秀は帰陣なさった。この時から、清州衆と抗争されることになった。

 平手政秀は清州の家老衆・坂井大膳だいぜん坂井甚介じんすけ川尻与一(秀隆)かわじりよいち(ひでたか)という人々へ、和解をするよう数通の書状をしたためて送ったが、平手の交渉は上手くととのわなかった。

 翌年秋の末になって和平の合意ができて無事におさまった。
 その時平手は、大膳・甚介・川尻方へめでたい和睦であると書状を遣わしたが、そのはしがきに古歌が一首
 袖ひぢて 結びし水の こほれるを
    春立つけふの 風や解くらむ

かつて袖をぬらして手ですくった水も、冬の寒さに凍ってしまっていたであろうが、立春の今日の風が溶かしているであろう。清州での和解の意をほのめかした
 とあったのを覚えている。このように平手政秀は、かりそめ(一時的、その場限り)のことにも風雅な人であった。

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