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9年前

 数字だけ見るとすごい時間が経ったように思うが、今でも鮮明に覚えている。当時のことについてあくまで東京にいた僕個人の状況はどうだったかを書きたい。

 当時僕は大学1年生で、その日はサークルの部室にいた。音楽系のサークルだったので部員数名で演奏の練習をしていた時、突然大きな地震が来た。部室は建物の4Fにあり、今まで体験した事がない程、横に大きく揺られた。部員の1人が咄嗟にドアを開けて逃げ道を確保した。その他の部員は壁のラックに立てかけてあった楽器が倒れてこないように支えていた。

 はじめはなにが起こったか分からず、揺れが収まって無事を確認すると「すごかったなぁ」なんて言っていた。当時はワンセグなどというものがあったので、すかさずそれで情報を確認した。そこで初めて事態の重大さを認識した。

 仙台出身の部員はすぐ家族に連絡を取ろうとしたが、なかなか繋がらず。とりあえず1度下宿先に帰ると言って部室を出て行った。都内の鉄道も麻痺している状態だったので、僕と1人の先輩が部室に残された。先輩は近くに住んでいた別の先輩の家に泊まることになり、僕はバスを2本乗り継いで帰ることにした。

 先輩2人がバス停まで見送ってくれ、無事にバスに乗ることができた。1本目のバスを降りて2本目のバスの列に並んでいた時、たまたま前に高校時代に水泳部で何度か通ったスポーツ用品店の店員さんがいた。向こうはどうせ覚えていないだろうし、普段ならわざわざここで話しかけるようなことはないのだが、この状況で心細さもあり僕は店員さんに話しかけた。部活の話をするとなんとなくわかってくれたようだった。結局、店員さんと一緒にバスに乗り込み、店員さんが降りる停留所まで何か話をしながら(ここは覚えていない)過ごした。

 どれくらいの時間がかかったか覚えていないが、なんとか自宅に帰ることができた。家に着いた時にはより災害の状況が明らかになっていた。後日、サークルの部員全員の無事が確認できた。仙台、女川、大船渡出身の部員もいたが幸いにも家族も無事だったそうだ。

 僕はそれから1年後に宮城県七ヶ浜町、2年後に岩手県南三陸町でのボランティアに参加した。2年ではまだ生々しい津波の跡が至るところに残っていた。一昨年5月南三陸に再び家族と行く機会があった(サムネの写真はその時撮った旧防災対策庁舎)のだが、2年後はプレハブの商店街だったものが、新たな商店街が建てられており、防波堤などの整備が進んでいた。

 もちろん今も苦しんでいる人もいる。福島では原発事故でまだまだ先が見えない状況が続いている。少なからず僕に今できることはあの日を忘れないこと。いつくるか分からない災害に備えておくこと。

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