さよならだけが人生だ
僕は、生まれも育ちも東京だ。
こう言うとたまに「シティボーイだね」とか言われるけど、東京でも田舎の方なので、全然「カントリーボーイ」だと思っている。(もはやボーイという歳でもなくなったけど)
東京に住んでいると、沢山の人に会う機会がある。個人としてそんなに多くの人と関わっているかは別として、一般的には人と会う機会は多いだろう。特に進学や就職では東京に沢山の人が集まってくる。
でも、そうやって他県から来ても、またしばらくすると地元に戻っていく人もかなり多い。来る人が多ければ、それだけ去る人も多いのが東京だ。
先日、友人がまた1人、地元に戻ると言うので、そんな寂しさを感じていた。
たまたま聞いたポッドキャストで、「勧酒」という漢詩を、井伏鱒二が訳した言葉が紹介されていた。
原文の「人生足別離(人生別離足る) 」直訳すれば「人生は別ればかりだ」となるところを、井伏鱒二は「さよならだけが人生だ」と訳した。
名訳として有名だそうだが、確かに、一言だけど、その中に色々な感情が込められているように感じるし、粋な爽やかさも感じる。
日本語の「さようなら」は「そうであるならば」という接続詞だ。英語の「See you」や中国語の「再現」みたいに、再会を希望する挨拶ではなく、世界的にも特殊なものだと何処かで聞いた。
それをもってくるところが井伏鱒二のセンスなのだろう。
「勧酒」の「人生足別離」の1文前には「花発多風雨(花発けば風雨多し)」とある。
「大事な時には邪魔が入りやすい」という意味で使われているが、最近の天候とも重なる。
唐の詩人も、この季節に同じような事を考えていたのだろうか。
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