企業主催の川柳を眺める〜川柳の入口各論

 川柳は色々な分類ができますが、経済を軸にして考えた時、企業、メディア、結社・総合誌、愛書家・出版社といった入口に分類されます。(※独自研究です)
 本稿では、まず、企業主催の川柳コンクールについて見ていきましょう。企業主催の川柳大会には、旧サラリーマン川柳(現、サラッと一句!わたしの川柳)、シルバー川柳に代表される川柳コンクールがあります。こういったものはテレビでも扱いやすく、川柳といったら、この系統の川柳を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。
 川柳の三原則、「穿ち」(本質を突く)「軽み」(気楽に読めるように)「おかしみ」(笑えるように)は指標として見るととても便利で、以降の各論でも用いることとします。
 結社や総合誌の川柳を基準にした時、企業主催の川柳は、「軽み」「おかしみ」で同基準を満たしているように思います。余談ですが、修辞は掛詞(同音異義語)しかないとテレビの影響で思われている時代がありましたが、今は落ち着いたように思います。一方で、「穿ち」のチューニングは非常に難しい。例えば、物忘れをテーマにした時、「軽み」「おかしみ」を入れることは可能ですが、「穿ち」をそのまま表現することは難しいように思います。例えば、昔、アメリカンジョークの「物忘れをすると、毎日新鮮な気持ちになります」というネタをテレビで見ましたが、「忘れる」ことの本質を据えて穿ちを入れることは難しいような気がします。忘れたことに対して、状況を描いたり、自分が道化になることは可能ですが、企業主催の川柳で人生観を描くことは難しいように思います。
 ちなみに、一般の投稿サイトには、「穿ち」を入れた川柳が発表されています。ご参考までに。

(参考)

  物忘れ後悔未練無くなって  ゆう
(https://marusenryu.com/senryu.php?sid=509395)

「物忘れ川柳 まるせんで川柳投稿」 

・「物忘れ川柳 1ページ目 川柳を投稿して皆で楽しもう」
https://marusenryu.com/?s=物忘れ&t=1

 俳句では、上掲句のように変化の中にある本質を描くことを「不易流行」と言います。川柳の方が肩に力が入っていなくて、計算していないうちに「不易流行」を詠むことができそうです。そもそも、「穿ち」、「軽み」、「おかしみ」が共存するんですから、狙いとしては「不易流行」になりやすいのはしょうがないのか。さすが同祖。
 シルバー川柳なら、こうした穿ちを入れることは出来そうですが、入選作を読むと、本質を突くことより、現場の中にある軽みやおかしみのバランスを重くした方が入選作っぽく仕上げられそうです。シルバー川柳は現場主義ですね。
 旧サラリーマン川柳に顕著ですが、コンクールではキャラクター論で書かなければ入選しないというくらい、キャラクター設定が固く守られています。家庭では、父は大抵サラリーマンで、家庭ではうだつが上がらない、母は大抵専業主婦で、父に厳しく自分に甘い設定で、子どもは母に懐いていて父を煙たく思っている。会社に行けば、部下は上司に理不尽に怒鳴り散らかされるズッコケ社員(古ッ)で、上司は部下に慕われていなくて若い者の流行を知りたいけど、誰も教えてくれない。大体、こんな設定だったと思います。
 「サラッと一句!わたしの川柳」に名称を変更したのも、上掲のキャラクター設定が世間の共感を得ないようになったからで、このようなコンクールは企画意図を変えても、キャラクター論を脱却できるのかというところが、初回の結果が出るまでの関心事です。
 主催者を慮れば、キャラクター設定自体が川柳の「穿ち」を担保していて、自動的にキャラクターに語らせるようにしないとイメージの制御が難しいので、キャラクター設定だけで「穿ち」を担保する今のやり方はなかなか変えられないと思います。創作活動として自由に「穿ち」に走られると、スポンサーの集まりが悪くなったり企業イメージに傷がついたりして、かえってリスクになります。なので、今のやり方で時代の平均を捉えた新たなキャラクターが生み出せるか、企業や主催者はそこに頭を悩ませていると思います。賞金狙いの投稿者は「社会的で常識的」な基礎を持っていながら、構造上穿ちが成り立つキャラクターを「新たに作る」という気概で投稿しないといけないですね。(難しくない?)
 というわけで、企業主催の川柳、穿ちはキャラクターに語らせろ! 以上!

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