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サルトルの誤算

 アマゾンプライムで井上尚弥とドネアの試合をみた。2ラウンドKOの圧倒劇だった。僕は興奮したが、違和感も覚えた。井上尚弥こそが日本人史上最高のボクサー、井上尚弥こそが世界最強、井上尚弥こそが神に選ばれた人間?如何にもそういう全体の空気を、僕の内の神は「異」とした。

 ドネアはいった。「人生の目的は、最高の自分を追求し実現すること」
 しかしその最高の自分だったはずのドネアが、まだ伸びしろのある井上尚弥に完敗した。昨日のドネアが本当にドネア自身の最高だったとして、それ以上「神の領域」があるわけではないだろう。あるとしてもそれは人間が踏み込める領域ではない。
 ボクシングにしろ他のスポーツや何にしろ、人間同士の優劣を決める物事というのは、「あらゆるすべての人間が勝者たり得る」という真理に反する点において、やはり俗的と言わざるを得ない。
 そもそも、真の最強(最高)であれば、戦う必要がない。今の自分が自分至上最高であるか?を試すために戦うということは、今の自分が自分至上最高であることを確信できていない証拠でもある。その意味でドネアも実はまだ最高の自分自身に到達できていないともいえる。

 真に最高の自分自身に到達した人間は、いちいちそれを試さないし、自分が最高であることをして、金や名誉を得ようとは思わない。むしろそれを拒否する。サルトルのようにだ。

いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない。(サルトル)

 本当に最高の自分自身に到達した人間は、ただ存在するだけで、周囲の無意識にそれを知らしめることができる。故に、敗北感や嫉妬心を周囲に抱かせることもない。
 そう、厳しくいえば、サルトルでさえ、そこまでには到達できなかったということだ。いや、「サルトル」という名前をこうして引用されてしまう事実が、サルトル自身の未熟の象徴でもある。
「サルトル」の名前は、周囲が勝手に神格化したのではなく、サルトル自身がそうしたのだ。サルトル自身の無欲が本物であればこそ、彼はもっと周囲や未来の歴史に配慮をするべきだったと思う。


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