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悟るためのメモ
全ての真正なる導師達が、皆等しく説いている事が一つあるのじゃ。
それは俗世に関わる事無く、自らの心の中を観る事なのじゃ。
何ゆえ真正なる導師達は、自らの心を観る事のみを勧めるのか。
それは凡そ一切の俗世間における物事は、人を満足させる事も出来ず、究極には苦をもたらすだけの夢幻の如きものであり、心の中にこそ真の満足と喜びがあると知っていたからなのじゃ。
人が世間において金や権力や名声を求める時、それらが得られなければ苦しみ、得られても又それらを失いはしないかと苦しむものじゃ。
得たものはやがて失われ、作られたものも壊れていくのがこの世の仕組みなのじゃ。
それらを得ようとして苦しみ、得られても苦しむ世に真の満足と安らぎは無いのじゃ。
怨みを心に抱く者が、世間において怨みを晴らそうとすれば、それが新たな怨みを生み出し、絶える事が無いじゃろう。
心の中を観察する事によって怨みが無くなるのじゃ。
そうすれば世間においても怨みを晴らそうとする事は無く、怨みは止むのじゃ。
世の多くの者達が間違えてしまうのは、そのような事なのじゃ。
心の中に寂しさや孤独があるから、金や名声で多くの者を身の回りに引き付けて寂しさや孤独を癒そうとする。
しかし、心の中に寂しさや孤独があれば、どれほど身の回りに多くの者が居ても、寂しさや孤独は無くならないのじゃ。
むしろ多くの人の中でこそ、更に強い寂しさや孤独を感じたりもする。
先ず心にある寂しさや孤独を滅しなければ、世間においてどのような条件があろうと、寂しさや孤独は無くなる事は無いのじゃ。
同じように心に劣等感や被害者意識やその他の苦があれば、心を整える事によってのみ、滅する事ができるのじゃ。
人が初めて自らの心を省みた時、むしろそこに苦が多いと観えるかも知れん。
今まで無理をして見ないようにしていた苦が、そこにあるからじゃ。
初めて己の苦と向き合えば、恐れを抱く事もあるかも知れん。
しかし、お釈迦様の教えた苦を滅する法によって、一つ一つの苦を恐れずに滅して行けば、そこに安楽があるものじゃ。
更に進めば思考や感情を離れ、それをただ見つめている意識が在るのに気づくじゃろう。
寂静であり、一切を見つめるものであるその意識に辿り着けば、肉体や感情や思考だけが己であると言う謬見を離れられるじゃろう。
そして更に瞑想が深くなれば、もはや言葉をもって表される事の無い意識に辿り着く。
言葉も仮設された観念も無いから一切の苦が無く、一切の本質が真の平等であり、区別が無い事を理解するのじゃ。
一切の区別が無いからそこにもはや死は無く、永遠の安らぎがあるのじゃ。
そこに至れば人は真正なる導師達の言葉が、本当に正しかったと自らに証明できるのじゃ。
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