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2024年の抱負:いつ終わってもいいように

新年明けましておめでとうございます。

2023年は8年間務めていたクラウドサイン事業責任者を後任に引き継いだ事により、背負い続けたものが一度身軽になり、新しい気持ちで世界と接することが出来るようになりました。

新しい気持ちで働き、新しい気持ちで仲間と接しられて、自分自身でも本来の自分の性格、考え方を久しぶりに接することが出来ています。こんなにも身軽で自由だったんだ。ヨルダン、シンガポール、中国/北京など世界を少しだけ旅しながら、国内も北海道から沖縄まで、いろんな人といろんな場所で世界と対話し始めることとしました。

10年前シンガポールで「世界を代表する経営者になりたい」と毎日言っていた。

心底嫌いなもの

身軽になった自分は、毎日を純粋に楽しめていました。

久しぶりに再会できた友人や同じ時代を共に闘った戦友など、会うべき時間が取れなかった人たちと会えたり、新しい価値観で新しい友人も増えました。毎日が新鮮な気持ちで過ごせる。こんな毎日が続いたらとも少しだけ思うこともありました。ただ当然ですが、長く続くわけがありません。

世界はこんなにも課題で満ち溢れ、身の周りにも課題は蔓延り、解決に向かう道筋が一向に見えないものが目についてくる。日々を営む中で、この課題は此の技術で実装すれば解決するのにと目についてしまう。

課題を解いている人物はいるのかと歩きながら調べてみると、少しはいるけれどそのアプローチでは社会実装は難しそうだと考えてしまう。そうすると課題を解決できるのは自分しかいないのかもしれない、という考えが頭から離れなくなってしまう。

世界を変えられるのが、もしかしたら自分だけかもしれない。妄想を忘れるように人と過ごしていても、その考えが頭を支配してしまう。自らの不作為により世界は課題のままを過ごす事になってしまう。純粋に過ごすことが出来なくなっていく。

世界が昨日と同じままの今日であることは課題がより強固となり、慣習化され、より変えることが難しい社会へと変貌を遂げてしまう。判子社会もそうして続いてきた。心底嫌いなものは、慣習や当時作られた価値観ではなく、今を生きる私たちが慣習を変えられない規範かのように受け入れてしまう事である。

いつ終わってもいいように

いつしか「今人生が終わっても悔いはない。終わっても構わない」と思ったり発言するようになった。歴史を目撃すると理想に燃えて全てを投げ打ち、自らの年齢には生きることが出来なかった偉人達で溢れている。

現代では暗殺の可能性、政治犯として取り扱われる可能性、戦乱の世となる可能性は(確かに有るけれど)低くなっている。歴史的には遥かに悲惨な可能性がある中で、理想に殉じていった者達がいた。自らの運命自体はいつ終わってもいいと思っていないと選べない行動を取ってるとしか思えない。

歴史を見る中で俯瞰して客観的事実を知るよりも、その只中にいた偉人達の主観的行動を想像する。いつ終わっても良かったのかもしれない。

彼/彼女らの人生を見つめていると、もう十分過ぎるほどの幸せで包まれた人生を歩んでいるのだなと思う。もう終わっても構わない。命が続いたとしても、彼/彼女らが懸命に生きたようなエネルギーが自分の中で枯渇する日がいつ来るとも限らない。

いつ終わっても構わないからこそ、限りある時間を大切に過ごすことができる。終わりのある一度きりの人生を懸命に生きようと願うことができる。恥じない人生をいつ終わってもいいと投げ出すことができる。

此の考え方がいつまで続くか自分でもわからない。怖くなるときもきっと来るのだろうと想像する。

全てを投げ出して、もう少しだけ慣習に抗っていようとみようと思う。昔ならそれを挑戦と呼んでいたし、少し前なら責務かのように感じていたけれど、今は人生をそう過ごすことが自分にとって自然なのだと思える。自分はこうして生きるしか生き方がわからない。

今年で終わるかもしれない1年を、また懸命に生きようと思います。いつ終わっても、いいのだから。

お読みいただきありがとうございます( ´ ▽ ` )ノ