【読切作品】鈴の音
運命の人に出会った時、軽やかな鈴の音がすると誰かが言った。
でも、聞こえるのはいつも何かが止まる音。
心臓の止まる音。
呼吸の止まる音。
そして命の止まる音。
俺が鈴の音を聞くことなんて生涯ない。
そう思っていた。
昼下がり、俺は本を片手に店番をしていた。
早朝に焼いたパンは、数種類のパンを除いてほとんど売り切れた。
大盛況でありがたい。
1年前に妹と2人でパン屋を始めた時は客が来てくれるのか不安だった。
もうすぐ妹も中学校から帰ってくる。
俺のことは気にしなくていいと言ってるのに「お兄ちゃんを手伝うの!」と頑として譲らずに真っ直ぐ帰ってきて店番と明日の仕込みを一緒に行う。
まったくあの頑固ぶりは誰に似たのか・・・。
俺は、丁髷のように結い上げた長い髪に刺した桃の枝に触れる。
店のドアが開く。
俺は、本を置いて扉の方を向く。
入ってきたのは俺と同じ16歳くらいの制服を着た大きな瞳が特徴的な細面の美少女。
毎日、この時間にやってくる常連さんだ。
彼女が入ってくる時、とても小さくて軽やかな鈴の音が聞こえた気がする。
しかし、直ぐに気のせいだろうと俺は、営業用スマイルを作る。
「いらっしゃいませ」
俺が声を掛けると少女は、恥ずかしそうに頭を下げる。
そしておずおずと店内に並べられたパンを見る。
「今日もラズベリーチーズかな?」
俺が声を掛けると少女は驚いた顔をし、そして頬を赤らめて「はい」と小さな声で頷く。
俺は、立ち上がって工房の鉄板の上に取り置きしておいた星形のラズベリーチーズを取る。
「飲み物はミルクティー?」
少女は、頷く。
彼女は、定休日以外、毎日通って同じパンと同じ飲み物を注文し、イートインで食べていく。
俺は、トレイにラズベリーチーズとミルクティーを置く。
彼女は猫の絵の描かれた可愛らしい財布からお金を出す。
「いつもありがとうございます」
俺は、にっこり微笑んで礼を言う。
彼女は、頬を赤らめ、トレイを持ったままモジモジとする。
俺は、怪訝な顔をする。
トイレかな?
少女は、意を決したように震える目で俺を見る。
「あの・・・」
「はい?」
「定休日って何されてますか?」
質問の意図が分からず、眉根を寄せる。
「もし・・・もし良かったら私と・・」
その時、豪快に扉が開く。
「マンマミーヤー!」
店に入ってきたのは浅黒いスキンヘッドの長身の男だった。耳に幾つもピアスを開け、サングラスを掛け、いかにも軽薄そうに見える。
男の登場に少女は驚く。
俺は、うんざりと頭を押さえる。
男は、店の棚から3種類のパンを取ってレジに持ってくる。
アンパン、食パン、カレーパン。
それが合図だった。
男は、少女の間に割り込んでトレー台に置く。
「ご依頼をお願いしまーす!」
そう言って大した額でもないのに小切手で支払い、そのまま出て行った。
少女は、呆然と見送る。
「ごめんね。いつも急いでる人なんだ」
俺は、男の代わりに謝る。
「いえ、そんな」
「で、なんだっけ?」
話しの続きを聞こうとすると少女はさっきまでの勢いもどこへやら頬を赤らめた俯き「何でもないです」とイートインに向かった。
俺は、小切手を裏返し、そこに書かれた文章を読む。
さあ、正義の味方の時間だ。
目に映るは暗く陰鬱とした闇。
漂うは吐き気をもよおす生臭い血の香り。
聞こえるのは鈍く砕ける音と断末魔の悲鳴。
私は、思わず耳を塞ぎ、目を閉じて世界を遮断する。
なぜ、私はこんなところにいるのだろう?
パン屋に寄ったことまでは覚えている。
受験受験で息が詰まり掛けていた私に親が唯一許してくれた息抜き。
お小遣いを渡され、帰りに好きな物でも買いなさいと言われたものの何をして良いかも分からず学校の近くにたまたま出来たと言うだけで寄った場所。
お洒落で静謐な店の雰囲気。
甘く焼けこげた芳醇な麦やバターの香り。
そして店のカウンターに座る同い年くらいの少年を見た時に聞こえた小さくて軽やかな鈴の音。
彼を見る度に話しかけたいのに声が出ない。手を伸ばしたいのに動かない。
同じ時間に店に来て、同じ物を注文して、同じように食べていく。
単調だ。
でも、その時間がとても幸せだった。
そして私は幸せを胸に抱えたまま店を出た。
そこで記憶は途切れる。
そして気づいたらここにいた。
幸せなどとは縁も程遠い、闇の世界に閉じ込められていた。
私は闇の世界のさらに闇、小さな檻の中に入れられていた。長方形の小さな檻は立ち上がるどころか身動きすらままならない。甲子は細いのに冷たくて固く、びくともしない。
私は、なんとか開けることが出来ないかかと手探りするが何をどうやっても開かなかった。
「おい、目が覚めたみたいだぞ」
下卑た声が聞こえる。
しかし、姿は見えない。
ただ、血生臭さと何か濡れた固いものを引き摺る音だけが聞こえた。
「そりゃ良かった。楽しみが増えたぜ」
こちらはキーの高い女性のような声だ。
ガチャガチャと噛み合わせの悪い歯車がぶつかり合うような音がする。
そして何かをらすり潰すような音も。
心臓が締め付けられる、
血流が滞り、手足が氷のように冷たくなるのを感じる。
「おい、暗いぞ。せっかくの面白い顔が見えねえじゃねえか」
下卑た声の主が怒鳴る。
「はいっただいま」
遠くから幼い子どもの声が飛んできたかと思うと、奥の方で弱々しい灯りが灯る。
灯は、ネズミのようにチョロチョロと揺れながらこちらへと走ってくる。
灯りが近づくにつれ部屋の輪郭が見えてくる。
無機質な四角い部屋だ。
窓の一つもない。
しかし、その壁にはベタリっと赤い染料が飛び散ってっており、床には・・・。
私は、悲鳴を上げた。
床には肉が擦り切れ、千切れ、圧縮されたように潰れた人の形をしていたであろうモノが無数に散らばっていたのだ。
「うるせえな」
女性の声をした何かがつまらなそうに言う。
灯が私の前にやってくる。
私は、やはり小さな檻の中に閉じ込められていたらしい。
しかし、そんな事実が些細なことなしか捉えられない程に私は視界に新たに飛び込んできた情報に飲み込まれた。
灯を運んできたのはステンドグラスの傘が無惨に割れたランプシェードであった。
しかし、それを運んできたのは人間ではない。
ランプシェードの台の部分に筋肉の発達した赤子のような小さな足が6つ生え、柄の部分には分厚い唇が木の実のようにくっついており、傘の割れた部分隙間から漏れる光の中に大きな目玉が見えていた。
そしてそれ以上に私の心を圧迫したのは巨大な二つの影。
一つは長針、短針が外れ、秒針だけが異様な速さで回る柱時計。3と9の部分に赤い目玉があり、胴に当たる振り子にも醜く歪んだ顔が張り付いている。そして両脇から生えた黒い毛に覆われた両腕に長針、短針がナイフのように握られ、その先端に突き刺さっていたのは・・・柘榴のように潰れた人間の頭だった。
私は、声にならない悲鳴を上げる。
その隣に立つのは木偶人形のように細長く、ゴキブリのように醜く黒光りする巨大なクラリネットであった。下腹部のベルの部分が逆立ちしたトカゲのように曲がり、その中にかいのように醜く歪んだ顔が見える。
「あらあらびっくりして可哀想に」
クラリネットが管楽器ならではの高い声で言う。
「でも、恐怖に染まった顔・・・ステキよ」
「本当だな」
柱時計は、大声で笑い、長針に刺さった人間の頭部を振り落とす。そして剥き出しになった先端を私に向かって突き下ろした。
長針の先端が私の太腿に刺さり、焼け付くような痛みが脳を打ち付ける。
私は、刺された太腿を押さえ、身悶える。
2つの化け物は、そんな私の姿を見て下卑た笑い声を上げる。それに続いてランプシェードも、よく見るとその奥にもいるアイロンや破れた衣服、子どもの玩具のような化け物も笑っていた。
「やはり人間をズタズタにするのは面白い」
「我らを散々弄んで捨てたのだ。報いを受けろ」
化け物たちは哄笑し、柱時計が再び長針を私に突き刺そうとする。
私は、恐怖に震え、鈍く光る針の先しか目に入らなかった。
小さなため息が聞こえる。
「悪趣味だな」
低い男の声がした。
それと同時に聞こえたのは軽やかな鈴の音。
化物たちが振り返る。
そこにいたのは白い蛇のお面を被り、丁髷に髪を結った黒い装束を纏った男だった。
柱時計とクラリネットが男を睨み、他の化物が取り囲む。
「何者だ貴様⁉︎」
「どうやってここに!」
しかし、男は答えず丁髷に刺した小さな棒を引き抜く。軸となっていた棒が抜け、髪が崩れ、流れる。
それは棒ではなく何かの木の枝だった。
彼は、棒の先端を逆の掌に当て、そのまま突き刺す。
鮮やかな鮮血が飛び散り、化け物たちが騒ぎ出す。
「付喪神のなり損ねどもが調子のりやがって」
木の枝が小さく脈打ち、変化する。
幹に血管のようなものが幾重も走り、艶やかな白に変化する。掌に当たった部分が歪み、赤い目とひび割れるよう顎と化す。
それは怪しくも美しい白蛇だった。
「巳月」
男が口にした瞬間、白蛇が鎌首を振り、姿が消える。
次の瞬間、男を取り囲んでいた化物が消え去り、残ったのは無機物の残骸と弱い光りだけを放つ砕けたランプシェード、そして2体の化物のみ。
私は、目が凍りついたように瞬きすら出来ずにそれを見た。
「貴様・・」
「神殺者か!」
化物2体は、身構える。
「だからお前たちは神ではない」
白蛇が鎌首を上げる。
柱時計は、長針と短針を振り下ろす。
クラリネットは、醜く開いた口から音の刃を飛ばす。
刹那
2体の化物の上半身は音もなく消え去っていた。
残ったのは積み木のように瓦解した下半身と無惨に散らばった化け物とそして人間の死骸と私の太腿の痛みのみだった。
私を閉じ込めていた檻が消える。
白蛇の面を被った男が私に近寄る。
今だ恐怖に震える私は男の挙動の一つ一つに怯えた。
男は、私の前に来ると膝をつけて傷口を見る。
「骨は大丈夫そうだな」
そう言ってどこからか小さな瓶を取り出すと蓋を開けて中身を私の足に掛ける。
焼けるような痛みが走る。
「直ぐ治る」
どこかで聞いたことがある声。
しかし、痛みで麻痺して思い出せない。
白蛇が私の鼻先に顔を近づける。
甘い香りが漂う。
痛みが消え、眠気が襲ってくる。
「全て忘れてゆっくり眠りな」
優しい声の向こうで軽やかな鈴の音が聞こえた。
「いらっしゃいませ」
学校が休みの妹が店に入ってきた少女を出迎える。
俺は、厨房で新作のパンを焼きながらチラリと見る。
もう足は大丈夫そうだな。
妹は、少女と親しげに話しながら注文を取る。
メニューはいつもと同じラズベリーチーズとミルクティー。
妹は、厨房にいる俺に業と聞こえるように大きな声で言う。
少女は、頬を赤らめて顔を伏せる。
照れ屋ななんだから止めてやればいいのに何で揶揄うんだ?
我が妹ながら性格が悪い。しかもニタニタとこちらを見ながら。
ラズベリーチーズとミルクティーを受け取り、席に向かう少女と目が合う。
少女は、びっくりしたように目を丸くして軽く会釈してくる。
俺もつられて会釈する。
ひょっとして覚えているのか?
一瞬、ヒヤッとしたものが腹の底を撫ぜるが、少女は直ぐに席に戻った。
良かった。
俺は、ほっと息を吐いて無意識に頭の桃の枝に触る。
微かに記憶があるのかもしれないが直ぐに忘れる。
忘れた方がいい。
俺は、パン作りに集中する。
「ご馳走様さまでした」
少女は、トレイを下げにくる。
妹は、それを受け取り、「またのお越しを」と俺に聞こえるように業と言う。
だから止めてやれよ本当に。
俺は、思わず嘆息する。
「ありがとうございました!」
少女の声がカウンターを抜けて俺の耳に届く。
俺は、驚いてカウンターを見る。
少女は、美しい笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「また来ます!」
「・・・お待ちしてます」
俺も何故か少女に聞こえるように大声で言った。
少女は、驚いた顔をして・・・微笑んだ。
妹がニヤニヤと俺たちを交互に見る。
少女が店を出ていく。
ドアの閉まる音と一緒に軽やかな鈴の音が聞こえた。
俺は、思わず笑みを浮かべる。
さあ、仕事をしよう。
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