見出し画像

「ブルグマンシアの世界」のひとたち7~斎藤ゆう/「斎藤ゆう60分ひとり芝居」も含めて

斎藤ゆう(榊、劇団ペトリコール社代表、「ブルグマンシアの世界」を執筆した作家)(「斎藤ゆう60分ひとり芝居」出ずっぱり)

以前にも書いたとおり、劇団ペトリコール社に出演者として僕を招いてくれたのは斎藤ゆうでした。

声を掛けてくれたのは「シンドバッドの渚(オリゴ党)」の稽古場。彼女が、それ以前の僕の役者姿を観てくれていたのか実は伺ってませんし、稽古の様子を見て仮に僕を気に入ったとしても、それだけで自分の劇団への出演依頼を掛けるのはいくぶんリスキーです。実際このときの僕はかなりひどい状態でしたから。それでも踏み切ってくれた背景には、田中愛積のプッシュが小さくなかったのだと思います。二人には心からの感謝を。
――それと田中愛積には何度か言ってますが、買い被りすぎです。これも心からありがたいんですが、まっすぐ言うのも照れくさいし、何より「いつか信用を失ったらどうしよう」という恐怖もあります。頼むからほどほどにして・・・。
(追記。僕が記憶していなかっただけで、斎藤ゆうはオリゴ党「エクスカリバーズ」の制作班としてサポートしてくれていました。特に受付とか場内整理とか、当日だけサポートしてくれるスタッフさん、その大切さは理解してるはずなのに、お顔を忘れてしまうことが多々・・・。毎回申し訳ないと思います。)

まずは僕から見た斎藤ゆうの人となりを、先に「シンドバッドの渚」から。
あくまで僕の場合は、ですが、どうやら僕はその人を声質で判断している部分が大きいようです。

これは初見の印象として、斎藤ゆうの声質は。
どちらかというと硬質。正確に計測した訳ではないですが、比較的低い周波数で構成されている気がしますし、抑揚がそれほど大きくないとも感じます。このあたりが要因かなあ。加えて常用される音域もさほど広い訳ではない。「必要に応じて高音域も使う」ことが判ったのはしばらく経ってからです。(蛇足です。「ブルグマンシアの世界」劇場でのサウンドチェックにAGATAさんの歌う「僕の見た夢、君の見る夢」を鳴らしてみたんですが、戯れにEQで3kHzと4kHzを思い切り突いたら非常に聴きやすくなりました。そこから推測すると、常用域としての斎藤ゆうの声の旨味は1.5~3kHzのあいだくらいだろうと思います。)
声質から判断して――のちに「大間違いだった」と気づくことになるんですが――「神経質」で「お堅い」「とっつきにくい」役者さんだと。
「シンドバッドの渚」の稽古が始まってしばらくは、僕はおそるおそる距離を測っていました。(これに関しては、僕が対人関係に臆病だということが大きな原因です。逆に「僕はとっつきにくい存在です」と言ってしまったようなものかもしれません。申し訳ないことをしました。)

稽古が進むにつれ(いや、意外と早い段階ですね)、初見の印象とは真逆だったことが実感として理解できてきました。
「シンドバッドの渚」は、別現場を同時に抱えている役者さんが多く、全員がそろって稽古というのがなかなか難しい。「代役」「スタンドイン」という重責を担う役者が大活躍します。ちなみに十数年遡ると、オリゴ党を発祥とする「関西代役協会=KDK」というユニオンまで(シャレですが)組織されていました。僕が初代理事だったんだそうです。まあ田中志保さんとか片岡雅くんとか、メンバー全員が理事待遇でしたけど。
この稽古場では明らかに斎藤ゆうが理事長でした。
「誰かが足りない」ってなると真っ先に彼女が「私やります!」って。
真面目さの表れでもあるんだけど、むしろ他者との垣根が低い(あるいは低くしようとしていた)。「とっつきにくい」どころか「溶け込んでくれる」「溶け込もうとしてくれる」懐の恐ろしく深い役者さんだということがよーく判りました。

ここまで書いたところで、「斎藤ゆうひとり芝居」が開幕しました。
こちらも盛り込もうと欲張った結果、この項はひとり芝居の本番には間に合わなかったのですが、その対価として、斎藤ゆうという役者を、夾雑因子のまったくない「ひとり芝居」という態様で観ることができました。おかげでここまでに感じていた「斎藤ゆう」のイメージを補強するところもあり、逆に「見方が変わった」部分もあり。
言うまでもなく「ひとり芝居」を「ひとつのお芝居としてとても愉しめた」ことが前提です。
なので、ここで、「脱線」というのは憚られますが、「斎藤ゆう」を、「雨が降るとは思わなかった/岩橋貞典」を基点として見つめるために、このひとり芝居に関しても、あるいは作家である岩橋貞典さんについても触れてみようと思います。おそらく「ちょっと」の分量ではないと思います。

「雨が降るとは思わなかった(作:岩橋貞典)」
ここんとこ中村はしょっちゅう言ってる気がするんですが、この作品も岩橋台本の集大成だと思うんですよね。
終演後少しだけ田中愛積たちとしゃべってたんですが、中村が岩橋貞典さんと知り合ったのがおそらく1999年。オリゴ党に関しては2000年「イルカ殺し(初演)」が最初です。
このときから、岩橋台本を構成する大きな要素は「意思疎通の手段としての『言葉』」というものだと僕は思っています。岩橋さんご本人がどう考えているかはともかく。

人間は言葉でしか意思疎通することができない。言葉によってすら疎通できないときもある。言葉なんて軽くて脆いものだから裏切られることもある。それでも、「言葉」という手を、誰かに向けて伸ばし続けない限り、そこには握り返してくれる誰かの手がある可能性もない。
「(言葉という)手を伸ばす」ということに関して、ここ10年くらいで岩橋台本に変化があったように思います。あくまで僕自身の単なる感想として、「そこには誰もいないのだろうけど、手を伸ばす」から「そこに誰かがいることを信じて、手を伸ばす」に変わってきた。そんな気がしています。
無根拠で無責任に「信じる」なんていうファンタジーを書くような人ではない。だから、ファンタジーであったとしても根拠があるはず。
現実に岩橋さんに(あるいはその環境に)どんな変化があったのか、それを詮索するのは(この稿を書いている一介の岩橋台本ファンとして)この稿の本旨ではないし、むしろ無粋だと思います。だからあくまで憶測として、あるいはファンの希望として、「岩橋さん自身が伸ばした手の先に、握り返してくれる人が、ちゃんといた」「あるいは、握り返してくれる人の存在に、気づけた、そして、その人の存在に、気づけたという事実に、岩橋さん自身が確信を持てるようになった」のかもしれない、そうであって欲しい、そんな風に思うのです。

この「雨が降るとは思わなかった」のラストは、(台詞を正確に記憶していないのですが)「そこに、私は、いますか?」のようなものだったと思います。
台詞術のようなところにも言及しますが、「――か?」は、必ずしも疑問である必要はありません。「私は――だと確信していますが、間違いないですよね『?』」と、「確認」「念押し」として処理することが十二分に可能です。
この台詞(正確な記憶ではないので「このような言葉/内容」)を吐いた斎藤ゆうは、ちゃんと笑っていました。
私の隣には、あなたがいます。あなたの隣には、私がいます。
(だから、言葉を交わそう。仮にオウム返しだったとしても、少なくとも私はあなたの言葉を聴いている。オウム返しの中に、いつか私の思いを込めることもできるはずだから。そしてこんどは私から、思いを伝えることもできるはずだから。)
彼女にも、そんな確信があったのだろう。少なくとも僕にはそう思えました。
これも正確な記憶ではありませんが、この作品の主訴がここにあるように、僕は感じています。

「私」「あなた」は、存在としてのそれぞれを指している、これが作品総体からの読解ですが、主語を「岩橋台本」に絞ってみると、「私」も「あなた」も、「(言葉という)手を伸ばす」行為の主体と客体を指している。
――誤読かなあ・・・。
それでも、そうあって欲しい、あくまでファンの希望です。

ここまで書いてみて、どうして岩橋貞典が自身の集大成(だと僕が思っている)を「斎藤ゆう一人芝居」に持ってきたのか、という理由が解ってきたような気がします。

「斎藤ゆう」も、「握り返してくれる人」のひとりだった。
だから、この大事な台本を、託せた。

お芝居を、あるいは台本の言葉を操る人に関して、「握り返してくれる人」とは、僕の定義では、

「作家に与えられた/託された『台詞』という『言葉』を、単語レベルで、段落レベルで、章(台詞ひとつ分)レベルで、登場人物のキャラクター/性格レベルで、人物相関レベルで、テーマや作家の意図レベルで、つまり作品全体のレベルで――

逆算し、理解し、咀嚼し、解釈し――

さらに

逆算し、理解し、咀嚼し、解釈した『言葉』を、どんな強度で、どんな深度で、どんな透明度で、どんな明度で、どんな彩度で、どんな温度で、どんな湿度で、どんな速度で――

どれだけ離れている、どれだけ親密な、誰に――

届けるかを明確に意図し具現化できる人」

です。

不本意ながら便宜上、「言葉を大事にする人」と称することにします。

「ブルグマンシアの世界」での斎藤ゆうは、この台本に書かれているのが全て自身の紡いだ言葉たちであることを差し引いても、「言葉をとても大事にして」いました。
言い回しやアクセント・イントネーション、そういった技術的なことは言うまでもなく、周囲の登場人物全てに対して、距離感・親密度・注がれるべき感情の多寡、こういったものが非常に明確に数値化されていたように思います。
同時に、独白でない限り、台詞は相手との双方向のやりとりですから、相手との立場の違い、さらには届けようとした言葉をどれだけ受容してもらえるか(逆に言えばどれだけ拒絶されるか/させるか)、そんなところにも緻密に計算が施されていた。そんなことも感じます。

「ブルグマンシアの世界」で斎藤ゆうが演じた「榊」というキャラクターは、過剰なほどに現実を投影した人物です。「正論」の人、といってもいいかもしれません。本人にとっての正義に基づいた言動が、往々にして軋轢を生みます。かつ、社会的な常識といわれるようなものも一定程度以上に身につけています。「そつがない」と言えばいいのかな。誤解を恐れずにいえば「汚れ役」だと思っています。
論破できると判断したシロに対しては正論でマウントをとるのも厭わない。ダストに対してはどう評価したんでしょうか、わりと当たり障りのない会話が中心。再婚相手の子供にあたるアルカに対しては、(表出のかたちとしてはある種歪んだ)母親の愛情と、「盲目的」という意味では恋愛感情に近いものも感じます。
役者・斎藤ゆうは、それらを悉く描き別けていました。
――どんな風に描き別けていたか。
印象に残っているのは「声」でした。

抑揚や音域に関して序盤で述べました。
比較的小さな抑揚、広くないと思われる音域は、「興味のない(というと語弊がありますが)」ダストに対しては効果的な社交辞令として作用しますし、決して高くない音域をさらに下げることでシロを圧することにも成功しています。そして、常用域を越えた高さで絞り出すような声は、アルカへの思いの強さを。

「声」と表現しましたが、これは「言葉を大事にする」に通底していると僕は思っていて。
さんざん小難しい理屈を並べましたが、これらは全て「思い」を誰かに届けるための方法に過ぎません。
「台詞」が、役者自身とは別人である「作家」の言葉である以上、そのことは「作家」自身が「役者」を兼ねている場合も同じく、「役者」自身の思いだけでは理解することも表出させることもできません。
だから、「役者」が「役/キャラクター」として理解し表出させるために、「役者」として扱える言葉に翻訳してやる必要があります。
翻訳した結果は、理論ではなく「声」あるいは「声色」として現れる。
逆に言えば、「言葉を大事にする」方法を自分のものにしていない役者さんの声は、「役」「登場人物」の言葉として、相手に、観客に届くことはない。どんなに情感豊かに発せられた言葉であっても、方法に基づかない言葉は役者の独りよがりを越えることはありません。
本人がどこまで自覚しているか、彼女自身が自信を持って言い切ってくれるか僕にも判らないので、僕が断言します。
彼女はその方法を持っている。
だから、例え抑揚が小さくても音域が狭くても、届く。

話が前後しますが、「雨が降るとは思わなかった」も終演し、今日(2023/05/02)斎藤ゆうと少しだけLINEでやりとりをして、思い出したことがあります。
20年以上前、僕がオリゴ党と関わりだした頃に岩橋さんから何度か言われたことば。
「(出演してくれるひとには)その人が『少し背伸びすればクリアできるくらいのハードル』を設定することにしている」「クリアできたと思ったら、さらに少し上げる」。
記憶に間違いがなければ、これは僕が初めてオリゴ党に参加した「イルカ殺し」のときに既に言われています。
そして、今日の斎藤ゆうとのLINE。
詳細はもちろん明かしませんが、「斎藤ゆうは、岩橋貞典をして『言葉を託すにふさわしい』と認識せしめている」と、彼女に伝えました。「・・日頃から言葉を大事にしているつもりではあるけど、「シンドバッドの渚」わずかひと公演という短時間で、岩橋さんは見抜いてくれてたんですかね・・・?」というのが彼女からの返信。
まだ現時点でこれに返信はしていませんが。

20年前に僕に対して「クリアできるハードル」の話をしていた、という事実を鑑みると。
この話が、「イルカ殺し」わずかひと公演の稽古期間中に交わされていた、という事実を鑑みると。
「イルカ殺し」のあと、断続的にでも僕をオリゴ党に登板させてくれている、という事実を鑑みると。
「僕(中村)も、言葉を人一倍大事にしてる」という自負があって、誰に否定されようがその自認を曲げるつもりはない、という、主観的ではあるけれどこれも事実を鑑みると。

僕と比較するのもおこがましいのですが、ここから導き出される解は、「斎藤ゆうは、岩橋貞典を納得させられるくらいに『言葉を大事にしている』」。

集大成とは言ったものの、これから先の岩橋さんの作劇にどんな変化があるのかもちろん判りません。だから「現時点での」という条件付きです。
それでも、その「集大成」を託すに値する、と判断されたのは間違いないと思っています。一介のファン目線ですが。
――岩橋貞典ファンでもあり、斎藤ゆうファンでもある、一介のファン目線ですが。

僕は理屈をこね回すのが好きで、こんな書き方になってしまいました。
どこまで伝わるか、果たして最後まで読んでくださった方がどれくらいいるか、すごく不安です。申し訳ないとも思います。
でも、これだけこね回せるだけの理論で説明可能な、感情だけに押し流されることのない、声と言葉に確たる根拠を持った――その点だけでも、僕にとってはとても魅力的な役者さんです。
作家として、劇団の主宰としての側面まで触れる余力がありませんでした。
そこも力及ばずです。
でも、これだけ理論で説明可能でありながら、周囲との垣根はとても低い、愛すべきキャラクターです。
これだけの理論を(自覚的無自覚的を問わず)有しているということは、それだけお芝居に対して真摯であることの証左である、ということも付け加えておきます。

東京進出、おめでとうございます。
本人曰く「まだまだ赤ちゃんなので」だそうです。
東京でどんな栄養を摂りこんで、どんな小学生になって大阪に戻ってくるのか(あるいは東京に定着するのかもしれませんが)。
「まるっきり人の言うことを聞かない」別人のようにワガママな斎藤ゆうが戻ってきたら、それはそれで面白いかもしれません。
それでも、おそらく。
「言葉を大事にする」「真摯な」斎藤ゆうの根幹は変わらないだろう。
そんな風に思います。
――一介の斎藤ゆうファンとして。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?