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京都から北海道への旅⑦-今は旅のできないあの人へ-

2021年10月上旬

ひとり鮑まつりの夜-いわない温泉髙島旅館-

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 一人で車の長距離はつらい。元来、あまり運転は得意ではない。すぐに眠くなるから。それなのに北海道に来ると、たいてい長距離運転にならざるを得ない。大倉山を出てからほぼ、走りっぱなし。日のある内にと思ってほぼ休みなしで走り倒し、五時過ぎにようやくたどり着く。
 高速道路とはなんとありがたいものか。札幌から小樽を過ぎ、余市辺りまで延びていたその道を、爆走、という言葉がそのまま当てはまるくらいに。道警の方々が顔をしかめる運転だったかもしれない。すみません。
 北海道の大きさを把握できていなかった、内地の人間の浅はかさの結果でした。

 高台にあるこの宿に着く直前、ふとバックミラーを見た。
 黄昏時の暮れかかる抜けるような青空に、同じくらい真っ青な海が大きく広がっている。
 息をのんだ。すげぇ、美しい。海と空をずどんと見渡せる絶景。が、車を停めるのがその時は嫌だった。ただただ宿に入ってゆっくりしたい。明日の朝、同じ写真を撮ればいい、と思っていた。
 しかし。
 翌朝、雨交じりの曇り。最悪。

 旅の写真とは、いや、旅のすべて行動は、いつも、しようと思ったときにそうするべきである。それをまた、思い知らされた。
 お土産も、後から買おう、と思っていると、時間がなかったり同じ場所を通らなかったりする。後で食べよう、と思っても、後で行くと店が閉まってたりする。一期一会。それを体感できるのが旅。
 いや、もしかしたら人生自体がそうなのかも。
 旅は、人生のちっちゃなシミュレーション。そう感じることがある。失敗の仕方を勉強できる、贅沢な学びの場。なんて書くと、やはり説教臭くなる。

 山積みのかぼちゃを見て、なんだろう、と思い、そして、あぁ、ハロウィンか、と思い至る。宿の人が、これは食べられないかぼちゃだと教えてくれた。そうなんよね。私には存在意義がいまいちわからない。食べられない、観賞用のかぼちゃ。

 そもそも人生の中に、ハロウィン、なんて行事が入ってきたのはほんの最近である。父が生きてた頃、自分の子供時代には、クリスマスなんて祝ったことがなかった、そもそも大人が楽しむ行事だった、とよく話していた。
 なんと古い話を、と思っていた。が、自分の人生の歴史の中にも同じような行事が存在しだしたことが、なんだかおもしろい。日本には今も、新しい文化が入ってくる。そしてそれは多分に、商業主義とともに。

 30歳になる少し前に行ったアメリカへの語学留学中、現地のハロウィンを体験した。仮装をし、生まれて初めてかぼちゃを彫ってジャックオーランタンを作った。人の頭より大きなそのカボチャを削りながら、なんともったいないことを、と思った。中身は食べないのか、と問うと、美味しくないが食べたければ食べてもいい、と言われた。美味しくないのなら、と食べずにいた。
 もったいない、と思ったが、よくよく考えれば観賞用の花やなんかと何ら変わりはないとも思った。じゃがいもだって、江戸の昔には観賞用の花として珍重されていて、いもの部分を食すことはほとんどなかった、と読んだことがあるではないか、と。

 私には、食べられないかぼちゃの栽培に心血を注ぐ気持ちは正直、わからない。家でも育ててるのは、食べられる農作物だけである。けれど、蘭を育てるように、美しい形を目指して手塩にかけて育てているのだ、と言われればなんとなく理解はできる気がする。

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 宿の簡素な部屋は、とても心地よかった。いるべきものが過不足なく、ちょうとそろっている。簡潔な部屋。とても居心地が良い。ただし、大きく開かれた窓の向こうは、そのまま駐車場。こういう配置の部屋に来ると、男でよかった、思ってしまう。

 ただ一つ、これは帰ってから気づいたことだが、持っていっていた寝巻を帰ってから洗濯しようと思い、ふとかぐと、くさい。
 もしかして俺の体臭か?などとしばし疑いながらも、自分では吸わないタバコのにおいがべったりとついていることに気づいた。もともと喫煙可の部屋だったのだろうか。滞在時にはあまり気にならなかったが。。。
 タバコというのは全面的に禁止してほしい、と思うのは吸わない者のエゴかもしれないが、やはりあのタバコの臭いは、吸う人には永遠にわからないのだろう。

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 人気の宿、というのは共通点がある。なんというか、息を吸い込めるスペースがある、というのだろうか、大きくゆっくりと息を吸える、そんな、間のような空間がある。そのバランスは難しく、ものがありすぎてもごちゃごちゃしてるだけになり、なさすぎてもたださみしくうらぶれて見える。バランス感覚。設えのセンス、というのだろうか。

 ここも、空間が至極心地よい。ただ高価なものを置いているのではない。なんとなく気持ちの良くなるを、気持ちのいい配置に据える。それは非常に難しいことだと思うし、私には到底できない芸当。それだからこそ、こんな宿に来ると非常に、心が豊かさを増していく気がする。

 暖炉のすぐそばのソファに腰掛け、写真を撮っていた。すると本当に自然に、スタッフの男性が声をかけてくれた。会話の内容は他愛もない内容だった。でもほんとうに温かみのある、心地の良い井戸端会議のような、旅の宿に泊まるものにとって最も大切な豊かな時間だった。
 そしてそれらの会話は必ず、ゆっくりとくつろいでください、という言葉に最後はつながる。この自然さがもっとも難しい。

 こういう何気ない話ができるスタッフは、旅人がもう一度来たくなる宿に多い。おそらく、余裕のある宿とない宿の違いであり、それが、本当にくつろげる人気の宿と、高いものを置いているのに感動を与えないような無機質な宿との違いだと思う。
 結局、働いている人の心に緩やかなすきまがたくさんある宿は、おそらくお客の心にもそのゆとりが伝わるのだろう。

 やはり宿は、人で成り立つ。いくらネットが発達しようと、AIが発達しようと、それだけは変わらない。変わらないでいてほしい。
 人は、人とふれあえるからだからこそ旅をするんだから。

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 北海道は、寒い。寒さにめっぽう弱い私は、だから寒さを感じるようになるとあまり外に出たくない。にもかかわらず、ここの庭の椅子には座りたくなる。鋭く冷たい風が時折厳しく吹き抜ける。10月なのに。北の風だと肌で感じる。こうやって直に感じられるのが旅そのものだと本当に思う。

 沖縄が好きで、何より沖縄のサトウキビ畑を吹き抜ける風が好きだ。しかし、この庭のこの風は、海から吹きあげてくる北の大地の風。それはとっても力強くて、心を凛としてくれる気がする。引き締まる。そしてこの寒さは、温泉に入る歓びを倍増させてくれる。 

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 檜、だろうか。多分ルール違反なのだろう、湯舟を撮るのは。しかし誰もいないと撮りたくなってしまう。勝手なエゴである。

 湯が柔らかい。
 すべて浸かって、ぼんやりとする。
 体にしみこむ。
 自分に合うお湯は、それがそこそこ熱かろうとずっと入っていられる。

 口さがない友人は、どうせ目隠しされて、普通の水道水を沸かした湯に入れられても違いは分からないだろう、と言う。普通のお湯を沸かしたものと入り比べたことがないので、果たして自分が判定できるかどうかは分からない。

 ただ分かることがある。
 ここのお湯は心地よい。
 肌に浸透してくる気がする。
 ただただ、ゆっくりとできる。
 この気持ちよさに、嘘はない。

 いやぁ、今日は良く走った。そしてよく食べた。
 が、本番はこれから。この後の御膳をめざして、はるばる京都経由で北海道まで来たのだから。

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 机にそれこそ、海の珍味がこれでもかと並べられる。これですよ。これ。このためにはるばる札幌から車を走らせてきた。
 この宿では鮑をしこたま食べられる、と聞いてきたのだ。
 私はこの、ひとり宴会の様相が好きである。人がいればなお、にぎやかになるのかもしれない。ただ、しっかりと味わいたいものであればあるほど、一人の時間は、舌をおしゃべりではなく、味わうことだけに集中できる最高の時間となる。

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 食前酒をお選びください、と言われ、メニューを見るとがっつり、どう見ても飲む人がまずのどを潤すラインナップ。地ビール1本、あるいはお酒1本。
 これは飲めない人間にはなかなかもったいない。
 基本的にお酒の味はとても好きだ。日本酒の本当に良い酒など、舌の上で転がすと至福で舌鼓を打ちたくなる。しかし、いかんせん弱い。おいしいとは思うのだが量を飲めない。

 ではと、食前酒は地ビールを頼んでみる。飲み切れるかどうか疑問だが、とりあえずグラスについて一口、ぐい、といく。ビールがギューとのどに通りすぎる。っかあぁ~!
 いやぁ、うまい。
 地ビールの違いが分かるほど、お酒の味を分別する能力に長けてはいない。ただなぜか、地ビールはおいしく感じる。ぎゅーっと味が濃くて、しかもフルーティー。飲みやすい。これはいける。

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 鮑、鮑、そして鮑。
 こんなに食べてよいのだろうかと思うくらい、3個も出してもらい、その内一匹はまだ生きている。焼きに鍋、刺身。ひとり鮑まつり。

「動いているのは、焼いてください。切って食べていただいてもいいですが、せっかくですので丸かじりしていただければ。」

 とお兄さんに勧められる。
 もちろんです。がぶりといきたいです。
 ある種、自分の夢です!

 つつくと動くそいつを、七輪の上に載せる。火にあぶられ急に動き出す。うねうねと動く鮑。可哀想かなぁ、などと思った後、すぐに違うと思い返す。俺はこいつを食べて、命をもらってまた生きるんだ。


 ビーガンというやつが私はあまり好きではない。
 別に勝手にやっていただければいいのだが、自然保護のため、とか、命を救うため、とかSDGsのため、とか言われるとなんだか違和感を感じてしまう。あまつさえ、他人に対しても肉を食うな、だの、牛が発するメタンによって二酸化炭素が出るから地球を壊す、だの。
 申し訳ないが、こざかしい、としか思わない。おこがましい。

 多分、仏教なんかにある、業、という考えに真剣に向き合ったことがないからそんな軽薄なことが言えるのだと、私は思う。人は、生まれた時から食べるという宿命を背負っている。それは、生きる、という根源のためである。   

 生物が専門の友と話したことがある。なぜ人間は、パンダのように一つのものだけ食べて生きていけないのか。そうすれば楽なのに、と私が問うた。  
 すると彼はこう答えた。
 人間は、雑食のおかげで今まで生き延びられたし、ここまで勢力を広げることができた。パンダは笹が食べられなければ死に絶えてしまう。笹の全滅はパンダの全滅に等しい。ただ人間は違う。もし米が絶滅しても、小麦を食べられる。鶏が絶滅しても、豚を食べられる。人間は、何でも食べてきた。虫でも、ハイエナが食べ残した骨髄でも。
 なんでも食べ、おいしいと思うものが多かったからこそ、ここまで生き延びてこられたんです、と。

 生き物が食うのがかわいそう、などという悠長なことを言っている人間は、生きることに余裕をかましているからこそ、そんなこと考えていられるに違いない。
 私は、幸い食うのには困らなくなった今でも、必死に毎日を全力で生きている。だから全力で食らう。それが生きていようがいまいが。
 果物でも、米でも、そして、牛でも猪でも、豚でも鮑でも。


 いい具合に焼けてきたそれは、もう香ばしいにおいを放っている。君はもしかして人に幸せを与えるために生まれてきてくれたのかい?
 殻から、ぶりっと外す。美しい光沢で光るその殻の内側からきれいに外れた、もう分厚い旨味の塊にしか見えないそれに、がぶりとかぶりつく。

 ん?なんと!
 すくっと歯が入る。ぶちりと大きく一口大に噛み千切る。口いっぱいの旨味をもぎゅもぎゅと噛みしめる。

 もうなんだかもう、うまいなぁ。なんやこれ。
 噛むたびにうまい。
 もともと貝が好きで好きで仕方ない人間。アサリなんかを食べてるときに、もう少し大きければいいのに、と思う。鳥羽の大アサリを食べてるときでさえ、もう少し続けば、と。

 おったやん、ここに。もぐもぐと噛み続けられる最高の旨味の親分が。
 貝類独特の、あっさりしてながらしっかりとしたおいしさ。
 牡蠣はおいしいが、触感が柔らかすぎると思う時がある。そしてどうしても、最後にクセが残る。対して鮑のなんとすごいこと。まったく口に何も嫌なものが残らない。ただただすっきりとした旨味だけが広がる。

 罪深き人間やぁ、と自分で思う。でもいいや、これで罪深くなるなら。俺はもともと業を背負った人間。ならばその業を一身に受けて、この世にあるすべてのうまいものを食べてやる。
 と、変な誓いとともに丸々1個、すべて噛みつくし、食べつくした。
 なんというしあわせ。あと2個も食べられるではないか。

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 こだわっている、というのがものすごく好きで、この宿も当たり前ではあるがこだわりが強い宿であろう。
 お皿を運んできてくれたお兄さんに、この辺でもこんなに立派なわさびが取れるんですか、と問うと、曰く、このわさびは静岡から取り寄せてるんです、とのこと。魚がおいしくなるんです、とっても、と笑いながら話してくれる。そりゃあそうやろうけど。わざわざ、静岡から極上のやつを。
 頭が下がる。

 生の鮑に擂ったわさびたっぷりとのせ、しょうゆに少しつけて口に運ぶ。ふわっとした、鼻の奥まで広がる丸い辛さの後、ふんわりとしたわさびの甘みとともに、より増した鮑の旨味ががっつりと舌の上に広がる。
 おいしいなぁ。そりゃあおいしいよなぁ。
 宿の人が、お客に最もおいしく食べてもらおうとしてるの、わかるもんなぁ。


 お兄さんと話していると、この岩内で生まれ育ったとのこと。
 海があって山があって、山海の幸多きこの土地。でも人間というのは不思議なもので、食べるのに困らないだけでは、その土地とどまることはしない。ましてこんなに寒いところだとなおさらだろう。
 でもお兄さんは、ずっとこの土地にいて、この宿で働き始めてよかったという。過疎化からは逃れられない。でも少しでもここを良くしたい。
 この宿には、この土地が好きな人間ばかりがいて、宿を少しでも良くしたいと思っている、と語っていた。岩内が本当に好きなんですね、と言うと、はい、とってもいいところです、とまっすぐに答えていた。

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 お兄さんが部屋を出てから焼き魚をつつく。焼き加減は最高で、ほこほこした身は、貝の触感とはちがって口の中でやさしくほぐれる。美味いなぁ。お兄さんは、この魚もこの辺でとれる本当においしい魚で、僕は鮑より好きかもしれません、と言っていた。わかる気がする。毎日食べられる味。落ち着く味、というやつなんだろう。

 コリコリとした刺身の歯ごたえを楽しみつつ、食糧需給率が百パーセントを超えている北海道の豊かさというものを噛みしめる。
 こんなに豊かな大地なのに、やはり農業を志す人は減っている。畜産も酪農も減っている。棄農という、大嫌いな言葉。

 じゃあお前は、と言われれば自分には到底、あんなに大変な仕事はできない。だからやめていく人が多いのも仕方ない、と思う。でもやっぱり。。。

 こんな美味しいもの、できるだけ長く続けて育てていってほしい。エゴと言われてもいい。私はだから、ただおいしいものと食べるために地の果てまでも足を運ぼうと思う。
 だからお願いします、がんばってください。
 ありがとうございます。
 それしか言えないと思った。

 土地に根差したお兄さんの、誇りある笑顔を思い出す。彼がいてくれればあと何年かは、この素敵な時間は維持されていくだろう。必ず、もう一度、次は仲間とともにここに来て、みんなで丸のままの鮑にかぶりついてやろう。そう心に決めた。

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 びょうびょうと吹き荒れる木々を見ながら露天の温泉につかるのが案外好きだ。どちらかといえば、台風の時にワクワクしていたクチの子供だった。なんというか、風が吹き荒れるときには、風の力というか、自然の強大な力を身の内にためることができるような気になる。

 ここのお湯は心地が良い。ゆっくりと入っていられる。吹き荒れる風に踊る木々を見ながら、せっかく持ってきた三脚は今回は役に立たないな、と真っ暗で星一つ見えない空を仰ぎながら、少し残念に思う。
 顔を鼻までつけてみる。耳の中に、こぉぉ、と静かな音が満ちる。明日はもう帰らなければならない。

 こうやって宿を守ってくれる人が、これからどれだけ残ってくれるのだろうか。全国を旅していて、宿がつぶれた話を聞くたびに思う。こんなにしんどいことをしてくれる人が後どれだけ続くのだろう、と。
 でもそれは単なる、大都市に住む人間の浅はかな心配事なのかも知れない。やはり土地を愛する人がいてくれて、もてなしたい人がいてくれる。そしてまた、旅をすることができるようになる。そう信じたい。
 ありがたいなぁ、と思う。いい国に生まれたなぁ、と。

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 いい宿、というのは本当に人の心をくすぐるのがうまい。

 ガトーショコラ おひとり様おひとつ ご自由にどうぞ

 あーあ。寝る前のこの一口。悪魔の誘惑。
 しかしこれを断れるほど強い人間ではない。なんといううれしい心遣い。こんな風に、人のココロのこちょばゆいところにちょうどいい具合に手を伸ばし、くすぐれる人間になってみたい。

 ガトーショコラを一片、小さなお皿にのせて階段を上る。眠る瞬間までしあわせで包まれる気がした。

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 朝からピカピカのイカに出合えた。あまい。昨日あれだけ食べたはずの魚介類なのに、まったく飽きない。
 日本の旅館の朝ご飯は、やはりとても落ち着く。
 焼き魚は、普通なら夜のメインになってもいいくらいの、大きくてがっつりと美味しい魚。大根おろしを載せて、一口、身をほおばる。飯が進みすぎて困る。帰ったら、またダイエットをし直さなければならない。

庭の緑

 名残惜しくてもう一度庭に出る。緑が目にやさしく入り込む。もう間もなく、北海道は長い冬に入るのだろう。しばし、この優しい色ともさよならして、酷寒の白の世界を迎えるのであろう。それはそれでとてつもなく美しい景色なのだと思う。ただ、寒さが極端に苦手な私にはあまり浮かれる要素とはならない。この季節に来てよかった、そう思う。

 仕方がない。そろそろ出発しよう。今からまた、ながいながい、ひとりのドライブをしなければならない。

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 途中、岩内の町をうろうろ。
 その際に、浄土宗帰厚院に立ち寄った。なんでも、東京以北では最大の木造大仏、とのこと。境内には一人、お寺の女性がいらっしゃって、尋ねると、ここです、どうぞ、と言われた。

 たったひとり、大仏と対峙する。内地にありがちな、これはだめ、あれはだめ、これは尊いものだから、お前ら所従の者は近づくな、的な雰囲気はない。寺子屋のような、誰もが立ち入って良いような空間。

 そこに、どでかい大仏様が鎮座している。息をのむような迫力がある。立ち寄って良かった。

 大正時代に造られたというその仏像の前で、しばし正座し、呼吸を整える。こういう時、少し困る。南無阿弥陀仏、と言えばよいのか、我が家の宗派である真言宗の、南無大師遍照金剛、と唱えればいいのか。
 とにかく合唱する。目をつぶり、すうっと息を吐き、自然に吸い込む。心が落ち着く。

 信心深い、というわけではない。しかし時々田舎町のこういった落ち着いたお堂の中で一人ぽつねんと座っていると、得も言われぬ心の平穏を感じる。それは、大仏に抱かれた空間にいるから、なのかどうかはわからない。ただこうやって守り伝えられたものに、一人で対峙できる時間というのは誠に貴重だと思う。

帰路のみちくさ①-きのこ王国仁木店ー

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 きのこに目がない。そして昨日、爆走しているときから目をつけていた、その名も、きのこ王国。5号線を余市に向かって北へと走らせ、右手にあるその建物に即入った。

 あった!落葉きのこ!天然ものじゃあないか!
 昔、長野県の松本で初めて天然物のなめこを買って以来、そのきのこの魅力にどはまりしている。

 おそらくどれだけ言葉を尽くしても通じないのはわかっている。それでも書いてしまうと、なんせ栽培物のきのこは、ざんねんながらきのこではない。いや、違うなぁ。農家さんは一生懸命作ってくれている。
 ただし、天然物は段違いに違う。香りが違う。旨味が違う。きのこって、うまい!松茸だけではない。とにかく、天然物はものすごく、ぎゅっと香りと味が凝縮されている。

 おねえさんに、これがいい、と勧められた。香りをかいでみる。容器の隙間から、木を熟成させたような、鼻に広がる最高の香りがただよってくる。
 はい、これ買います。即決した。これを大阪まで持ち帰るのが、この後の最も大切なミッションとなった。

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 その隣にきのこを食べられる食堂があった。
 天然物のきのこを扱っているお店に併設する食堂。まずいわけがない。本当は、岩内町で食べたお菓子やら何やらでおなかはかなり膨れている。しかしここは、きのこ王国。食べるしかない。

 見れば、きのこの天ぷらにきのこ汁。あるじゃあないですか。当然のように両方頼む。ふと隣のボードに目をやる。きのこ入りフランク、とな。これ、あかんやつや。うーん、いってまおう!
 胃袋はここ数日のフードファイター張りの多食で持たれ気味。なれどこの美味しいきのこならばいくらでも入るはず!

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 ようやく番号が呼ばれて、待望のきのこ尽くしとご対面。
 これは極楽やぁ。

 この大きな舞茸の天ぷらよ。栽培物と言っていたが、そんなのは関係ない。箸でつまんで一気にかぶりつく。

 うっほー。やっぱり美味しいきのこならいくらでも入る、はず、え、やった、んやけど。。。ん?

 味がせん。

 いっつも家で買ってる、生協のと同じ、か?
 いやいや、と思い、もう一口いく。
 重たい油の衣。一口ごとに……油が弱った胃にしみわたる。
 あぁ、やってもた。

 きのこ汁、これはいけるはず、と一口すする。
 きのこの味がせん。なんでな。きのこのあの、芳醇な薫り、が、ない。
 だああ。やってもた。

 どうにかこうにか箸を進める。
 これがだって、北海道最後のメシになるよていなのだもの。
 美味しいものならいくらでも受け付けるくせに、胃が、重いよう、としくしく言っている。何とか味噌汁で油を流す。

 結局、サブキャラのはずだったはずの、きのこ入りフランクのおかげで何とか救われた。これは無難においしかった。ふう。あぁ。

 気を取り直す。俺にはそれでも、落葉きのこがある。これをうちに帰って味噌汁にすればとびっきりうまいんだ。そう自分に言い聞かせて、何とか完食し、王国を後にした。

帰路のみちくさ②-さっぽろ羊ヶ丘展望台(クラークの丘)ー

羊の丘

 余市から高速に乗れば、札幌で下りるより空港まで直接行く方が絶対に効率がよく早い。それは知っていた。が。旅はぎりぎりまで楽しむ方。何ならしゃぶりつくそうとする。
 あと少し時間がありそうだ、と思い、札幌で高速道路を下りた。長年行ってみたい場所があった。あの有名な北海道のおじさん、クラーク博士が指さす銅像のある場所である。

 北海道大学の創設者なので、実はこの像は同大学内にあると思い込んでいた。しかし検索してみるとどうやら違うらしい。え、ヒツジ、が丘、とな。

 車に乗ったまま入口でお金を払ってから、結構走った。札幌市内なのになんと広大な土地なんやろ。ここは公園なのか?
 駐車場がある。今日は人もまばら。ラッキーなのかもしれない。

 外に出て、なんだか思ったのと違う感が出てくる。
 いや、像は広大な土地に立っている、とは思っていた。そしてその丘陵地には、確かにのどかに羊たちはいる。でも、である。その向こうには大都市、札幌の町が一望できる。札幌ドームが見える。
 いや、まあこれがそうなんやろうけれど。。。

 自分は何を期待していたんだろう。なんとなく、広大な農業地が広がる、というか、富良野のようなイメージというか、あるいは北大のように学問地があるような文教地区のような感じというか。。。

 ここは、観光農場、なんだな。

 建物はある。が、土産物屋さん、だけなんだろうか。
 何もない、と言ったら、北海道の人に怒られるだろうか。

 羊さんたちはのどかに草を食んでいる。でもそれも、群れ、というにはほど遠い、数頭。ま、これはこれでいっかな、と思い、クラークさんに目をやる。羊からほんの数メートルのところで、クラークさんは今日もどこかを指し示していた。

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 おそらく繁忙期ならばこの像の前に行列ができるのであろう。今日のような平日でも何組かが待っていた。こういう写真スポットでは、否応なくひとり身の寂しさを心中に叩きつけられる。

 カップルが仲良く、ああでもない、こうでもない、と構図を考えている。実に嬉しそうに。後ろに並んでいるとプレッシャーをかけてしまうだろうなどと考えてしまい、それを微妙に離れた場所から眺めつつ、早く撮ってまえよ、などと、心の中で悪態をついている。
 が、すぐ後に、自分、そら空しすぎるで、と、間髪を入れずもう一人の私が突っ込む。

 いよいよ人がいなくなり、自分が写真を撮る番となる。

 最近の観光地はよくしたもので、きちんとスマホを置く台がある。そこにセットすれば完全にきれいな構図で撮れる。さすがSNS時代。そこは独り身にも優しい気がする。

 もう一度、クラークをよく見る。
 指の角度、足の開き。よし、完璧だ。

 カウントは10秒。
 セットして像の前に走りこむ。
 指の角度、最高。足の角度、オッケー。
 連続でシャッターが切れる音がする。
 よし、完璧。

 一人台へと戻る。画面を確認する。
 完璧、であった。指も、足も。

 なのにもう、一回で見るのが嫌になった。
 なぜならば何よりも、クラークの像よりも強烈に、私の眼に飛び込んできたものがあったからだ。
 それは。。。

 この数日で食べに食べた分、ポッコリと出たお腹。

 どうだ、北海道の大地はうまかっただろう、と言わんばかりに。語らずともとてつもなく雄弁に。それはクラーク博士のスリムなお腹との対照によって、より際立っていた。

 消そうか。
 いや、これも思い出だ。
 このとてつもなく豊かな大地の証だ。

 今回もまことに美味しいものをたらふく食べ、本当に多くの人と話すことができた。たびはやっぱりいい。この豊かなお腹とともに、しあわせをもって帰ろう。

 ありがとう、北海道。

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