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インターネット上に文章を書く理由みたいなもの

最近、文章を書くときに構えすぎている気がする。

かっこつけた文章を書きたいわけじゃないし、書いているつもりもないけれど、「これはほんとうに自分が思っていることなのか」を考えすぎてしまう。

書くときにそんなことばかり考えているから、同じテーマの文章を書くことができない。前に書いた内容との間に齟齬はないか? 自分ではなく他の誰かの言葉を自分の考えだと思い込んでいるんじゃないか? 前のときはどういう思考ルートからこの考えを導き出した? お前、途中で書くのめんどくさくなってないか? そうまでして書く意義がある内容か? と。

ああ、めんどくさい。

意義なんてもんははじめからない。前にこう書いたけど、いまはこう思うでいいはずだ。そもそもどうして自分はこんなに言行一致にこだわっているのだろう。人間の考えなんて、絶えず変化していて、昨日の考えと今日の考えと明日の考えが異なることがある、そんなことを自分はよく言っているはずなのに。

元来頭が固い人間である僕は、勝手によく分からないルールに縛られて雁字搦めになって生きていることがよくある。いまだって、「雁字搦め」って変換ででてきたから打ったけど、「雁字搦め」の漢字を書けない自分はここでは「がんじがらめ」とひらいて打たなければ誠実ではないのではないか、なんてことを考えている。

そもそも「誠実」ってなんだ、というところを考えるまでがワンセットだけど、ここらで止める。きっと、仕事やお金、死生観の話にまで展開され、想像するだけでめんどくさい。これは文章で書いて説明するのがめんどくさいだけで、いまこの文章は上記のことを考えながら同時並行で書かれている。

なかなか本題に入らないのは、悪い癖だけど、これは別に酔っているわけではなくて、自分の思考パターンがこうなんだと思う。一つの調べものをしている間に、気づいたら新規のタブが10も20も開かれていて、そのそれぞれから派生して無数に増え、次第に処理速度が遅くなり、沈黙する。リフレッシュするために、クラウドのメモアプリにそれぞれのタブに開かれているURLを一つ一つコピペして、タブを閉じる。あとで読むと言って保存したメモを、あとで読んだことは数えるほどしかない。

さっき、「意義なんてない」と言った文章をなんで書いているのか。自分はこんな高尚なことを考えているとか、こんなことを考えているのは自分だけでしょうねという自虐なのか自虐風自慢なのか分かりにくいことでもない。文章が下手くそなことは自覚しているので、文章力自慢でもない。そうなるとやっぱり、自分の考えや心の機微のアーカイブとして、自分のために書いている。と思ったのだけれど、それだけじゃないことを思い出した。

自分は、「こんなことを考えているのは自分だけ」じゃないことを確かめようとしている。

「共感性の高い文章」を書こうとしている、という言い方はたぶん違う。もっとこう、瓶に手紙を入れて海に流すような、もっと切実で個人的なこと。

自分の言っていることが誰にも理解されなかったり、誰とも同じ話ができないのは、孤独より孤独だと思う。孤独の美しさは分かるけど、孤独に生きられるほど、僕は強くはない。

人間、生きているだけで偉くない? という話が仲間内であった。偉いしすごいな、と改めて思う。1日を生きるのに必要なエネルギーは、たぶん人によってちがう。同じ人でも、その日によってちがうかもしれない。それは、それぞれに抱えているものが異なるからだ。抱えているものの重さだって、計れない。人によって体感はちがうから、当事者じゃない人がそれを軽いとは言えない。でも逆に、本人以外には自覚できないようなことで、抱えているものがふっと軽くなることがある。さっき僕が切実と言ったのはそういうことだと思う。

生きづらさを感じながらも、人は生きていかなくてはいけない。生きていかなくてはいけないというのは、語弊があるけど、人が人であり続けるためには、やっぱり生きてなくてはいけない。じゃあどう折り合いをつけていくか、そこに答えはない。

僕は「メンヘラ」という言葉があまり好きではない。「メンタルヘルス」「メンヘラ」、どっちでもいい。正確には、「メンヘラ」というカテゴライズによって分かった気になってしまうことが好きではない。メンヘラという言葉を使うなとは言えない。それは、僕だってメンヘラという言葉を使ったことがあるし、それで人をカテゴライズしていじったこともあるからにほかならない。人をメンヘラとカテゴライズして、いじることの面白さみたいなものを分かる自分はいる。その一方で、その流れに違和感や嫌悪感を示す自分もいる。その二人の自分は(二人じゃないかもしれない)、あらゆる場面で入れ替わる。

ここで初めの話に戻ると、言行一致というものは難しい。その場の流れに乗っかってメンヘラを軽く使う自分(ちょっと言い訳がましい言い方かもしれない)もメンヘラという乱暴な枠組みに閉じ込めて人の切実な思いを見ようとしないことに憤りを感じる自分も、どっちもほんとうだ。いまの自分の書き方を見ると、きっと後者のパワーバランスの方が強いのだとは思う。その証拠なのかは分からないけど、少なくとも文章上においては一貫して後者の姿勢でしか書いたことがない。文章上では。

そういう、人に話すと「めんどくさい」と切り捨てられてしまいそうなこと、でもそれは僕にとっては切実なことかもしれない。なにが切実で、なにが切実じゃないかなんて、いちいち言わないけれど、そういう一言で「めんどくさい」と言えることやそうでもないことも含めて、僕は瓶に入れて流している。

拾った人が、返事を返してくれるかもしれない。便宜上、「手紙」と書いたが、別に手紙ではない。でも受け取った人が手紙だと思ったのなら、それは手紙だ。返事をくれたらもちろんうれしい。僕が孤独じゃないことを確認しているように、自分が孤独じゃないことに気づく人もいるかもしれない。結局は、切実で、個人的で、利己的に書いている文章なので、どうなのかはわからないけど。これからも僕は書く。

手紙を書くのが苦手な僕は、やっぱり構えすぎてしまうみたいだ。これからはもっと気軽に書けたらいいのにと思う。インターネット上にちょっと書き置きするだけみたいな、置き手紙じゃだめだろうか。

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