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よしばな書くもん3 「夢でもし逢えたら」

父が亡くなったとき、ほんとうは死についてどう思ったのかをもう聞くことができないことに愕然とした。
そんなことは私が生まれてから一回もなかったからだ。
父の感想を聞けない、それは父がもういないということ以上になじめない感覚だった。
生きてないとどっちにしても聞けないんだからそんなはずはないのだが、ほんとうにそうだった。
死んじゃったこと以上に、不思議だったのだ。
逆にそのことで、父が一生してきたことの凄みを感じた。
常に考えを咀嚼し表現していた父は、生きていること以上にそのことの価値を高めてしまったなんて。
病院で死ぬのはつらいことだったのか、それとももうここまで来たらなんでもいいと思っていたのか。
あんなにホスピスはいやだ、入りたくないと言っていたけれど、その意見は変わったのかどうか。
私が病室でしていたことのうち、ほんとうはいやだったことはなにかあったかどうか。お花を飾るとか、加湿器にアロマを入れるとか、病室の雰囲気を変えるために父が好きだったダライ・ラマさまのシヴァ神のマントラを流したこととか。
最後にお見舞いに行ったとき、どうしても最後とは思いたくなくて、「父の容態を考えると旅行に行くかどうか迷っている」という話などしてしまったから、気を使って早く去ってしまったのではないか。
できることならもう一度だけ目を覚まして、
「死にかけた人の前で、あんな話をするもんじゃないぞ。君にはそういうちょっと雑なところがあるから。」
って言ってほしかった。すごく言いそうだ!
死ぬ瞬間に家族が近くにいなかったことを悲しんでいるのか。ほんとうはだれかにいてほしかったのか。 
それとも、だれにも見られたくなかったのか。
同じ病院の中にいた母のところに会いに行きたかったのか。それとも同じ病院の屋根の下に母がいることに、どこかで安心できていたのか。
きっとあの病院の人たちは、その瞬間に出張に行っていたり、猫の世話をしていた私や姉を鬼のような娘だと思っているんだろうな。
でも鬼のようではないことを自分たちがちゃんと知っているから、別にかまわない。
友だちでサイキックカウンセラーのきよみんが言った。「ほんとうに愛する人たちには、死ぬところを見せたくないって、動物も人間もやっぱり思うものなんですよ。」そうだといいな、と思いながら自分もそうだと思った。
愛する人たちがお腹が空きすぎてちょっとごはんを食べに行っているあいだに、そっと去りたいなと。

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