見出し画像

役割分担は「女性差別」なのか 「朝日新聞」のジェンダー平等論議を嗤う

「朝日新聞」は2020年4月2日(木曜日)「ジェンダー平等宣言」を発表した。(4月1日を避けたのはエイプリルフール扱いされることを危惧してとのことか)。「宣言」以来「朝日」はさまざまな紙面、企画を通して、この国での「ジェンダー平等」を実現するべく、一大キャンペーンを展開している。その中で、「朝日」が最重要の課題のひとつとして取組んでいるのが「夫婦による家事分担」。その一環として24年2月上旬、読者に「どう思いますか夫婦の家事分担」を呼びかけ、寄せられた投書の中から6つを選び「声」に掲載した(2月28日朝刊)。その中でトップに掲載されたのが「父見て不安 でも目指す将来の姿」と題された16歳高校生男子からの投書。

「僕の家では父と母の家事分担がうまくいっていない」

で始まる投書はこう続く

「比率でいうと1対9、もちろん1が父で9が母だ」

この少年は「朝日」を始めとしたこの国のマスコミの刷り込みによって「家事」は夫婦で必ず分担しなければならない、と信じ切っているようだ。ところで、この少年の投書には母親の仕事についての言及がない。専業主婦と考えてよいだろう。この少年の家庭では「家事分担の比率」が父と母で1対9だという。では、父親は何をしているのか。一日中、競馬場に入り浸り。あるいは麻雀荘で遊び仲間と日がな卓を囲んでいるのか。それなら少年が若者らしい正義感で「母だけに家事をさせておいて」と腹を立てるのも理解できる。ところが少年は続けてひと言

「父は仕事の関係でほとんど家にいない」

なーんだ、給与を稼ぐため働いているのだと。そのおかげで少年の家庭は生活することができ、少年はつつがなく学校へ通い、学生生活を満喫できるのである。しかし、この投書には少年の父親の働きに対する評価は皆無。仕事内容への言及もない。関心が全くないのだろう。

一方、母親がする家事については多大な関心を示す。家事こそが全てであるかのようだ。なぜ、そんな考えを持つに至った事といえば、理由は至極単純。母親の家事は日々、少年の目に入るが、父親の働く姿は視野に入っていない、というそれだけの話。しかし、視野に入らぬことに想像力が働かないというのは人間が未熟だからだ。少年が未熟なのはいた仕方ない(少年だから)。しかし、問題は大人である「朝日新聞」だ。ジャーナリストとして少年の100倍のリテラシーがあり、経験があるはずなのに、少年と同じ見方しかできていないのである。

少年の父親に対する不満は家事を分担しないことだけである。例えば「父は時々仕事をさぼる」とは言わないし、「稼いだ金を大半ギャンブルに使ってしまう」とも言っていない。「飲み代に半分消える」でもないのだ。とすれば、この父親は日本の多くの父親のように稼いだ給与をすべて妻の管理に委ね、妻から毎月の小遣をもらっているのだろう(ちなみにこのシステムは欧米にはない。男たちの意識に「オレの稼いだ金はオレのもの」であり、妻から小遣いをもらうなど「ありえない」ことなのだ)。

 しかし、少年は家事を母親任せにしている父親に厳しい。「(仕事から)帰って来ても家事をやらない」。この父親がどんな仕事をしているかは判らない。しかし、彼が自分の持てる時間、エネルギーのほぼすべてを注いでいるだろうことは容易に想像できる。仕事とはそうしたものだからだ。とはいえ、父親はそれでも家事をすることがあるらしい。しかし、父親のする家事は「下手」で「センスがない」と少年はにべもない。この父親がしかし、仕事の現場では抜群の「センス」を発揮し、周囲から信頼されているかもしれない—-といったことなど少年にはおぼろげに考えることすらないのだろう。そして、父親が時々する家事が「下手」で「センス」がないことに、母親の「不満がたまり」、よりによって父親の帰宅時に「爆発する」。

ここまできて気がついた。父親がたまにする家事が、「下手」で「センス」がない、というひどい評価は元来、母親の口から出た言葉ではなかったのか。それがすっかり少年の心に刷り込まれていた。しかし母親の「爆発」に対し、父親は「ごめんなさい」、母は「いつもそればっかり」。母親の「爆発」がハンパないことは父が「姉か僕に助けを求める」ほど。しかし「僕には助けられない」と冷たく突き放す。そう、家事を引き受け、しかも「上手」に「センス」よくやることが出来ない父さんが悪い。

この少年の議論は全うなものなのだろうか。(「朝日」は、全面的に支持している。)少年は

自分の家の家事分担は「上手くいっていない」、父と母が「1対9」だという。ところで家事と給与稼ぎの仕事は車の両輪。この2つは等価関係にあると考える。この2つが回って家庭が回る。少年は家事を全体で10と算出した。であれば給与稼ぎの仕事も10とみるべきだろう。少年の家の家事分担は父と母で「1対9」。給与稼ぎの仕事は?夫と妻、共働きの場合、割合は5対5、あるいは6対4、もしくは7対3など色々あるだろうが、少年の家庭は専業主婦。給与稼ぎの夫と妻の貢献度は10対0。家事の分担は夫と妻で1対9。こちらは0対10でも一向に構わない。役割を分担しているのだから。しかし、少年は「家事の分担」にこだわる。せめて、父と母で4対6ぐらいになって欲しいのだろう。すると、トータルでみるとどうなるのか。父親は給与稼ぎの仕事に10、さらに家事を4、計14。母親は家事を6、これが彼女のすべて。これを比較すると、父は14母は6。ジェンダー平等どころか父親の負担が著しい。つまり、この少年及び「朝日」に決定的に欠けているものが

 物事はトータルにみる

という原則。ある項目だけピックアップするのではなく全体を見る。家事をやらないお父さんは給与稼ぎの仕事に全力を尽くしている、この上家事までやれ、というのは酷じゃないの? というごく単純な話なのだ。それに日本の男の過労死はカローシとして、既に世界語になっている。彼の労働時間は先進国でトップクラス。この事実を少年も母親も考えていないらしい。いや、マスメディア自体考えていない、「男よ家事をしろ」の大合唱。

 ところが日本のお父さんはまじめだから、自分の長時間労働も顧みず、家事をする、やろうとする、結果、こわれてしまうというケースが少なくないという。当たり前だ、人はスーパーマンではないのだから。

「夜、8時に帰宅したら、家事をする時間もエネルギーもないでしょう」

 日本のサラリーマンを想定した極めて常識的なコメントは、ハーバード大学日本研究所所長(女性)。こうしたまっとうな発言が日本のメディアやフェミニストから聞かれることはない。すべて「男が悪い」式のコメント。しかし、海外の研究者は男に長時間労働を強いる日本のシステムが問題だというのである。

 家事・育児をするかによってのみ判断されるようになった日本の男たち

 時々、考える。この国の男たちが、その働きによってではなく、専ら家事をするか否かによってのみ評価されたり、されなかったりするようになったのはいつの頃からか。作詞家の安井かずみさんが「働く、ということに関しては、この国の男たちには120点満点あげたい」といった評価は近年、すっかり聞かれなくなった。男たちの働き方はたいして変わっていないのに、以前、日本で働く若いフィリピンの女性と話したことがある。主に定年後のことを話したのだが

「日本の男ぐらいよく働いたら、定年後は自由に好きなことをして過ごしてください。家事?とんでもない。それを粗大ゴミなんてひどすぎる。」

彼女によるとフィリピンの男は「プレイボーイ、働かない」のだそうだ。ほぼおなじことを以前、フィリピン通の先輩から聞いたことがある。「あの国は女でもっている」と。するとどうだろう、日本人があたかも神のご託宣のように受けとめている経済フォーラムの「ジェンダー・ギャップ指数」。151位かそこらの日本に比べフィリピンははるかに上を行く。日本人にとりあおぎみるような存在。しかしこのフィリピン女性のコメントである。フィリピンでは男が働かない分、女性が働きに出て一家を支えることが少なくないのかもしれない。結果、女性の社会進出が進み「ジェンダー・ギャップ指数」は上位に入る。これっておかしくないか? つまりこの「指数」はその背景や中味を一切伝えない。国会議員や企業幹部に占める女性の割合だけで測っている。女たちの日常のリアルを伝えるわけでは全くないのだ。

母親の役割とは

 この投書をした少年が家事労働を大へん重視するようになった背景として、母親の存在があるだろう。母親が日ごろから家事をしない父親への不満を口にし、特に「爆発する」というのだから。一方、父親は自分の仕事の愚痴やたいへんさについては一切語らないらしい。

だから、少年が父親の日頃の仕事や働き方を意識することもない。一方、メディアは「朝日」のように折に触れ「家事の分担」を説く。そうした情報が母の愚痴と相まって少年の考えを形成したのである。

 少年がしかし、父親の仕事、働きを意識しないという点では母親の責任が大きい。以前FEN(いまのAFN)で家庭生活へのアドバイスという番組があった。そこで次のようなことが語られていた。父親は日頃仕事で家にいない。故に、母親は父親の仕事について日常的に子供に伝える責任がある――。この投書者の母親は全くそれをしていない。もし、折にふれ父親の仕事や働きについて息子に語っていたら、彼はこのような一方的な投書文を決して書かなかったに違いない(続)。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?