自由で人生に不可欠で時限的な「遊び」
今回からホイジンガの「ホモ・ルーデンス」を読んでいきます。今回は、「序章」と、「1. 文化現象としての遊びの本質と意味」です。序章の中で盛んに、ホイジンガの講演タイトルについて、「文化の遊び」とすべきところを、「文化としての遊び」に変えられて困ったという話が出てきます。この章のタイトルは大丈夫?
面白さを本質とする非理性的な遊び
ホイジンガは、遊びを生物学的機能ではなく、文化現象として捉えます。科学的な方法を手段として、その本質を捉えようとします。これまでの遊びの定義、「有り余る生命力の過剰を放出すること」、「遊びをするのは、先天的な模倣本能に従っている」、「緊張から解きほぐされるための遊び」、日常の仕事の練習、人との競争など、は、不十分であるといいます。これらは、「遊びは遊び以外の何かのもののために行われる」という点で共通しています。
一方、遊びは人の深くにある美学的なものとも関連する可能性があります。ドイツ語のartを起源に対応するaardは、あり方、本質、天性という意味ですが、この言葉が「面白さ」、遊びに使われるようになったのは、近年になってからというころです(中世には、バカにするという意味)。
人間の美的認識と関係のある遊び
ホイジンガは、遊びを真面目でないものと議論を展開していきます。しかし、本気の遊びもある、とそれについて反駁をしていきます。
ここでアリストテレスだったらどういうか、考えてみます。彼だったら、「遊びは、真面目と不真面目の中庸である」というのではないでしょうか。勝負という真面目なところもあり、でも真面目過ぎると面白くないので、不真面目でもあるのです。そのハイブリッドのちょうどいい塩梅のところが、遊びと言えるのではないでしょうか。これはカントの言う美的領域にも当てはまります。彼は、美的領域には知的領域から離れて、「自由な戯れ」遊びの状態が必須だと言います。
この節の最後のあたりでは、真偽、善悪と遊びの違い、遊びはむしろ美に近いと議論が展開します。そして、遊びの中でも、「比較的複雑な形式の遊び」に注目し、それらには「人間に与えられた美的認識能力のうち最も高貴な天性であるリズムとハーモニーが織り込まれている」と。そして、「遊びは、幾本もの固い絆によって美と結ばれている」と結びます。
ホイジンガの消極的な遊びの取り扱い
「遊びの形式的特徴」では、ホイジンガは「社会的な遊び」に限って考えることを提案します。この中で、以下のように語ります。
この遊びの捉え方は、補助的と言うことで非常に保守的に感じられます。ホイジンガ自身、この消極的な遊びの捉え方と、フロー状態になり、他人聖のの遥か高みに登ってゆく遊びとの間にギャップを感じています。この捉え方は、遊びの少ない男性ならではなのか、この第一次世界大戦という時代のためなのかもしれません。
もっと積極的に、日常における遊び、正当性を得ることになる遊びとして考えることも可能なのではないでしょうか。例えば、お化粧やアクセサリーを考えてみると、これは日常であり、遊びと本来の姿との境界線はありません。直接には関連しないのですが、カラフルな装いということで言うと、鳥の色鮮やかな羽が思い起こされます。それは何のためか、と考えると自分以外の鳥のため、特に雌鳥のためだということになります。この自由に戯れることのできない真面目さを、ホイジンガも引き継いでいるのかもしれません。
遊びの特徴:自由、非日常、完結性、限定性
遊びは、自由であり、非日常であると言います。そして、時間的制約、空間的制約の中で遊びは秩序を作っています。また、緊張が、遊びの中で重要な役割を持ちそのため、不確実であり、やってみないとわからないという特徴がある。さらに、この緊張と倫理的な側面が関連しています。
この章では、彼の言いたいことが十分にわからずに置いてきぼりになった感じがする箇所がありました。今後「文化創造の機能としての遊びと競技」や「遊びと知識」、「芸術の遊びの形式」の章を読むのが楽しみです。読み進むに従って、謎も解けてくるでしょう。
ちなみに、この扉の絵は、chatgptに「自由で人生に不可欠で時限的な遊び」を描いてとお願いしたものです。なんと遊び心のない絵でしょうか?数回言葉を変えてお願いしましたが、ダメでした。やはり、遊びは人間、動物の特権なのでしょうね。
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