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生まれ持つ属性が物を言う旧経済の都市

 ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀 世界時間』の第2章3節、『ヨーロッパにおける都市支配型の旧経済:ベネチア以前・以後』を読んでいきます。

新航路開発の実際の立役者:ポルトガル

 新大陸発見というと、ジェノバ市民コロンブスを思い浮かべるだろう。しかし、そのための準備は、1400年以降、航海王子エンリケから航海王ジョアン2世によって着々と進められてきた。1487年に、バルトロメオ・ディアスによってアフリカ南端まで到達した。彼はその地を「嵐岬」と名づけたが、ジョアン2世は、「喜望峰」の名を与えた。

ジョアン2世(ref: wikipedia) 

 すでに、ポルトガルはこれまでのアフリカ航路の開発で、胡椒、象牙、砂金、奴隷などの得て潤っていた。ポルトガルは、さらにアフリカ大陸の西側を南下し、インド大陸への航海路を開発しようとしていた。
 一方、コロンブスは、このポルトガルの動きを夫婦でマデイラ島(アフリカの西側の島)に住む時に聞き及んでいただろう。たまたま東に流され島にその島に漂着した白人漂流者の話を聞く。これがきっかけとなり、コロンブスは、西側経由でインドへいくことができると確信する。結果として、アメリカ大陸を発見したのである。
 考えてみれば、そのころ地球が球体であることが考えとしてはあったが、だれも証明した人はいなかった。コロンブス自身は、日本にある金を目指して、冒険に出た。ポルトガルは、バスコダガマが見出した希望峰まわりの航路によって、胡椒貿易で成功したが、名声はチャレンジャーに持っていかれたのである。

世界の中心はリスボンではなくアントワープ

 しかも、ポルトガルの都市リスボンは、世界の中心にもなれなかった。それは、消費力の差が生み出した結果だった。つまり、胡椒および香辛料の消費者の9割がいたヨーロッパ北部アントワープが、その当時の経済の中心だったのだ。ポルトガルの船に積まれた胡椒は、リスボンは素通りしてアントワープまで運ばれ、そこで交換されたのだ。
 世界の中心という名声を成立させていたのは、アントワープ市民ではなく、そこに住む外国の貿易商人達だった。一時期は、為替手形の導入による信用経済のテスト市場になった。しかしながら、アントワープにあった中心性は、自ら作ったものではなく、外圧で形成され、たまたまそこにいたに過ぎなかった。そのため、その一時が過ぎた後に、アントワープは毛織物工業の町として変化していくことになる。

外的要因:地理的な位置と市場の交換関係に揺れる都市

 結局、旧経済の都市は生まれによって、ある程度世界に躍り出るのかどうか、決められていた。移動距離、人口規模、資産の蓄積などの都市の属性や周りの地域の状況に依存する。都市は、周辺地域の変化に翻弄され、知らない間に中心に置かれ、気がつくと蚊帳の外に置かれている。チャレンジによって新しい経路を開発しても、結局はどこで価値が受け取られるかが勝負なのだ。
 旧経済の産業革命前の商業経済は、ある意味わかりやすい、商人中心の世界だった。これが、工業的な社会やその後の情報化した社会では、技術革新やシステムの作り方によって、世界の中心の算出はより複雑になる。金算段だけではなく、多様な創意工夫で差が出る資本社会へと変化していく。

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