SDL(Service Dominant Logic)的なものは、実は遊びなのかもしれない
今回はホイジンガの「ホモ・ルーデンス」読書会の3回目です。今回は、手分けをして最後まで読み解きます。私の担当は、「9. 哲学の遊びの形式」と、「10. 芸術の遊びの形式」です。
青年の遊びとしての哲学、教育・文化のギリシャ的環境を形成したソフィスト
ホイジンガは哲学が、原始時代の聖なる謎解き、弁論術、祝祭の余興から形成されてきたという。そもそも、プラトンまでが、哲学を青年の遊びとみなしていた。哲学によって、問いが深く掘り下げられたとしても、それは高貴な遊びに過ぎなかった。
一方、ソフィストについてはプラトンはじめ、単なる「見せびらかしの長広舌」であり、単なる遊びにすぎないと、見下してきた。しかし、歴史の中に颯爽と哲学者が現れたわけでもなく、ソフィストこそが、教育、文化のギリシャ的理念の基礎を作ったのだ。これは、少しトリッキーだが、ギリシャ当時の状況を検証してみる必要がある。ギリシャ時代の自由人にとって、要求された業務以外のほとんどの時間は、自由時間だったのだ。つまり、試作、研究生活の代表者がソフィストだったわけだ。結果として彼らの活動が、教育、ひいては哲学を生み出していった。
弁論という戦いの場とともに盛んだったソフィストが、アリストテレス以降、型に嵌められた哲学が世に蔓延った。ニーチェが格闘技的な哲学の復活を目指すまで続いたのだ。
遊びと音楽・舞踊
遊びは、生活の合理性の外であり、必要・利益の領域の外にある。ギリシャ語では、遊びは子供の遊びであり、下らぬ戯言だ。より高級な遊びの形式は、闘技、暇つぶし、気晴らしとなる。高級な社交遊びとしての音楽は、まさに遊びなのだ。それは、舞踊も同様だ。
ホイジンガは、音楽・舞踊のようなミューズ的芸術と、造形芸術は異なり、後方は遊びではないという。実際ギリシャでは、知識や技芸などをミューズの支配下に位置付けた一方、造形芸術には敬意が与えられなかった。その理由としてホイジンガは、前者には遊びの性格が認められるのに対して、後者には欠如しているという。
音楽・舞踊などの美的活動は、演じられる中に芸術作品がある。
ホイジンガは、造形芸術をまじめくさった他の人の目的を達成するための勤勉な仕事だとする。つまり、ミューズ的芸術は共同体的な喜びの中に生き、造形芸術はそうではないのだ。
競技としての遊び
一方、造形芸術に備わる闘技的本能に注目して、練達した手の技術によって最美の作品作りに遊びを見るのだ。
ホイジンガへのコメント
ホイジンガの考える遊びとは、パーフォマンス、プロセス、共同体的な喜びの中にある。これはSDL(Service Dominant Logic)的な活動だということだ。従来サービスは、金にならない余興という位置付けだった。つまり意味のないことである遊びは、サービスによる共同活動を重視することと深く関係づいており、そのなかにこそ新しい意味合いが共創されるのだろう。
ホイジンガが造形芸術と、音楽・舞踊などのパーフォマンスを区別するのは、不思議だと感じる。制作プロセスを全て開示していないにせよ、かれらも自身の美的世界と課された仕事の間で戦っているのだから。 一方、造形芸術とミューズ的芸術との統合の兆しが、競争というのは意外だ。競争、コンテストを活用して、日本のクラフトの芸術的立場を固めることも可能なのかもしれない。
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