II.可惜夜

 二十分も走ると大きな公園に出た。ランニングコースがぐるりと囲んでいて、地域のランナーや犬を連れた人でけっこう賑わう。この時間帯に来るのははじめてだが、見たところ人の気配はない。この辺りの住人は行儀がいい。

「うおおおおおおおおおああああああああああ」
「すううらああああああああああああああああ」
「ぎあああああああああああえええええああっ」

 私は自転車でランニングコースを疾走した。奇声をあげながら。この夜を手中に収めたくてとにかく吠えまくった。何週でもやってやる、捕まってもいい、加速した自分だけが世界を突き破ってこっから飛び出してってやるんだと思いながら
「ひゅっ」
と息を止めた。
 目の端に、人っぽいものが見えた気がした。
 生え際やわきの下からぶわっと汗がふきだした。指先に若干の震えがくる。え、まじで通報じゃん。大人になってから怒られんのほんとに嫌なんだけど。何罪だよこれ… いや待て、あっちの方がよりやばいやつの可能性あるぞ? 目ぇつけられたらと思いながらゆるゆると失速して足をついた。あれ?
 止まってしまった。どのみち逃げるのが一番ましだと意識はいうのだが、体の方が動かない。うつむいたままどこにも行けない。家の鍵しか持ってない。忘れていた蝉の合唱が、舗装されたコースをレーザービームのように縦横無尽に撃ちまくる。じんわりと体に熱がこもった。ざわめきに混じって、背後から小さな足音らしきリズムが徐々に近づいてくる。歩行のピッチ。同じテンポでかさかさ、何かがこすれるような音も聞こえる。逆に真っ向からいこうと決意し、私は自転車を降りた。
「あの、すみません」
振り返り、相手から目を離さず会釈する。
「あ、やっぱり。」
その女性は大きな花束をかかえて、その中の一輪みたく微笑んだ。可愛らしいが似合ってはいなかった。見覚えのある顔だ。屈託のない様子に危険は去ったかと思いつつ、最も自身の奇行を知られたくない微妙な距離感の相手だった。
「ああー、どうも?」
語尾が変にうわずってまぬけになった。彼女はそれを受けて、花火のようにぱっと驚いて、公園中に響き渡るような大声で笑いだした。
「あーっはっはっはっはっは!!」
「え、えー」なにそれ。
花束と一緒にわさわさ揺れながら笑っている。彼女は以前、定期的に足を運んでいた花屋の店員だった。名前はわからない。最後にその店に行ったのは二ヶ月半前か、あの日は彼女に会っただろうか? とはいえ互いに顔を知っているというだけで、世間話すらろくにした覚えはない。ここへ来てこの人懐こそうな感じはむしろネックだ。どうすれば自然にこの場を去れるのか、とりあえず「すみません」と頭を下げた。
「いやいや、大丈夫です。あはは」
「花束、あれですね、きれいですね」
口から勝手に出た。奇行に触れられたくないばっかりに、小心者がほとほとあきれる。離脱のパターンを思考するのが早くもめんどくさくなっている。
「あ、これ。……よかったらいかがですか?」
「え。」
「押し付けるつもりじゃないんですけど、最近いらしてないなって。ちょっとだけ気になってたんで。……いや。要りませんよね」
うつむく顔つきにどうにも毒気がなくて、私は苦笑して両手を差し出した。
「なんか、冗談みたいだなぁ」もそっと苦い顔で笑った。「私きょう誕生日なんです。日付変わって、今日」
「すごい! おめでとうございます」
「いやいや。ありがとうございます」
そう言いながら自転車の前かごに花束をすっぽり納めた。タイミングとしては、ここが最適ではないだろうか。今だ、と手足に指令を送る。が、なんとなく一歩目が重い。
「……お名前、聞いたことありましたっけ」
「私ですか? 美波です」
名乗ると気さくな笑顔のまま黙っている。数秒後、私は己の社会性の欠如に思い至り、身の毛がよだつ。
「あ、わ、私、凪っていいます。以前はその、よくお店に伺ってたんですが。すみません。最近はなかなか……」
「そんなそんな、いいんです」美波さんは両手をぶんぶん振った。
街灯は無遠慮に明るく、そのぶん影は色濃い。虫の声がすっかり周囲の景色に染みこんでいる。夜のレイヤーの合間を縫って、いつかの羽虫が過ぎていく。ささやかな風が私たちの間を一度ながれた。
「何、してたんですか? こんな時間に」
「それはお互い様じゃないですか」
彼女は私の雄叫びを思い出したのか、口元をおさえてうふふと笑った。
「もしまだ時間あったら、誕生日のお祝いしませんか? 花火しましょうよ、花火。私好きなんです」
私は目を丸くして、何度かうなずいた。

 花売りみたいな自転車を押して、近くのコンビニまで二人で歩いた。公園には木々や水辺があって真夏でもいくぶんさわやかだ。しかし文明は容赦がない。自動ドアをくぐると突如、冷気に圧をかけられ反射的に二の腕をさすった。美波さんは入ってすぐに並んでいた手持ち花火に目を細め、カゴを取って二袋入れた。
「あっやばい私、財布。持ってきてないや」
「えー、いいですいいです。私が誘ったんだし。ていうか凪さんのお祝いなんで! 奢ります」
押し問答するのもややこしいので素直に受けた。水でいいかと思ったけど、遠慮していると思われてもしのびないのでカフェオレにした。
「普段、お酒飲みますか?」
「飲まなくはないくらいです。もしお酒がよければ、私が払うんじゃないのにあれですけど」
アルコールの棚の扉が曇っている。手でこすってみても意味がなかった。開けて、結露をそっと触ると指先が濡れた。他に客はいない。美波さんは商品よりもその奥の空間を選んでいるように見える。私は横から手を伸ばして、発泡酒の缶をひとつ取った。
「じゃあ、私もいいっすか?」
いひ、と美波さんは笑った。

 二袋の花火と、カフェオレ、ミネラルウォーターを二本、カルピス、発泡酒、桃の缶チューハイ。美波さんはフライドチキンをひとつ買い、私は謹んで辞退した。自転車のハンドルに荷物をかけた。美波さんはチキンを両手で持ってさくさく食べる。歩きながら、どうして花束をかかえていたのか訊いてみた。
「それ! もう。すごいしょうもない話なんですけど、いいですか?」
私はもちろんうなずいた。
「今日のお昼に来たお客様なんですけど、これからプロポーズ、的な感じだったんですね。すごい気合い入ってて、色々こだわってらして。私が作ったんですよ、この花束」
美波さんは私より一歩前に出て、前かごの花束のラッピングをぴっとつまんだ。
「そしたらお店終わる頃にその人、まんま花束かかえて戻ってきて。プロポーズ、失敗したらしいんです。見てると悲しくなるから引き取ってくれって、そんなの断ったって、結局捨てられるだけじゃないですか。だから業務的にも別に問題はなかったし、引き取ったんですよ。……そしたら帰り際、」
美波さんが眉をきゅっと上げた。
「あ、返金は大丈夫なんで。とか言うんですよ! あっっったりまえじゃないですか! バカなのか! 貴様ははたして大丈夫なのか!」
今度は私が笑う番だった。
「あーっはっはっはっはっは!!」久しぶりに大声で笑った。「待って。待ってください。はたして!」ハンドルを支える手がぶれて、あやうく自転車ごとひっくり返りそうになった。
「ほんとですよもう!」ふんっと鼻を鳴らす。
「それを」不意打ちを喰らった笑覚をやっとのことで落ち着かせる。「あはは。私に回ってきたわけですね」
「あっ、そうか。ごめんなさい……やっぱりちょっと嫌ですよね」
「いや全然。花は花ですから。関係ないでしょ人間の事情とか」
「ほんとに押し付けるつもりじゃなかったんです。一所懸命作って、まだ傷んでなくてきれいだから、自分が持って帰るのもなんかなあって思ってて……だからもらってくれて嬉しいです」
「その人の支払いで美波さんから誕生日に花束もらえて、win-winですよ」
そんなやつ失敗するでしょ普通に。そう言うと美波さんも笑ってくれた。

 ふたたび公園に戻ると、入口の注意書きが目にとまる。『安全のため自転車は降りてご利用ください。火気厳禁。』そもそも疾走してはダメなのだった。美波さんも看板に一度目をやって、特に内容には触れずに通り過ぎた。
 立派な樹木に庇われて広く陰になっている一角を見つけた。近くに芝生や花壇がないのも隠れ花火に適している。公衆トイレの用具入れからバケツを見つけてくると、美波さんが熱心に褒めるのでちょっと照れた。それから彼女はレジ袋の中身をすべて取り出し「このまま持っててもらえますか」とぴんと張った状態で私に手渡した。ペンの先でぷつぷつと底に穴を開けている。
「さいごに袋を持ち上げて、水を抜くんです」
私は感心しながら、影が被らないよう腕の角度を調節した。きまじめな動作に合わせて、ゆるやかなウェーブの髪が繊細に揺れる。袋をバケツにかけて水を張った。私は一仕事終えた達成感でカフェオレの蓋をひねった。
「あ。あれ?」
美波さんが眉をひそめて、スマホのライトでしきりに周辺を照らしている。
「どうしました?」
「あの。ライター……?」
「あっ。えっ?」
言われてみると、ライターをカゴに入れたかは定かでない。火種がないのはさすがにどうにもならない。今度こそ二人とも慌てた。私は絶対に家の鍵しか入っていないポケットを申し訳ない気持ちでよくよくまさぐった。美波さんは花火の袋をすみずみまで検分したり、鞄の中を照らして漁っていた。
「あっ、あー!」
高々と掲げられた、美波さんの手にある小さな使い捨てライター。スマホのライトを浴びて紫色にすきとおっている。
「おおー!」
「やった! やりました!」
さながら新しい鉱石を見つけた発掘調査隊であった。なければないで私が一走りおつかいに出れば済む話であったことに、後でひっそりと気づいた。

 火薬の匂いがなつかしい。小さい頃に、一度だけ母が花火を買ってきてくれた。火をつけるとものすごい煙で目をあけていられなくなり、しゅううっという音が聞こえなくなるまで腕をぴんと張った姿勢で火傷の恐怖に怯える羽目になった。少し離れて見守っていた母が「こっちかな」と私の体勢を風下に向けてくれた。母は物静かな人だった。そうと信じて見なければ感じ取れないような、淡い微笑みをいつも浮かべていた。今度は煙に邪魔されなかった。だけど私は「わあっ」と言ったきり二の句が継げなかった。まぶしく吹き出す火花は、うまれた瞬間から次々とこぼれおちて失せてしまう。最初の白い光から、赤になり、緑になり、ぼんやりと色味を反射させながら、やがて火勢が衰えて消えた。たちこめた煙も夜に溶けていく。その繰り返し。さみしい遊びだと思った。終わって家に戻るときには母に「楽しかった」と言った。その日以来、花火からは縁遠い。

 対して、彼女の花火は燃えていた。
 勢いよく吹き出す火花の輝きが、美波さんに投影されて次々とはじけた。反射を受けた頬は生命エネルギーを放出するかのようにひときわ光っている。のびやかに腕を振るって残像を踊らせ、
「きゃあ、見てください! 色変わった」
浮かび上がった笑顔も赤や緑に変わる。近頃の花火はアップデートされているらしく煙があまり出なかった。やがて火勢が弱まって消えていくのを、彼女はしゃがみこんで間近で見つめていた。終わりを見届けるとさっぱりと立ち上がりそれをバケツに挿した。
「凪さんもやりませんか? 楽しいですよ」
私も一本手に取った。
「このひらひらの先じゃなくて、根元に火を当てるのがこつです」
「なるほど」
「わー、きれい!」
私の持つ花火も、美波さんはきらきらと見つめた。ほとばしる閃光が乾いた土の表面を照らす。持ち上げてさっと振ると、流れ星みたいに斜めに落ちてすぐ消えた。
 ひとしきり丁寧に味わったあとは、ばちばちいう花火に四本いっぺんに火をつけたり、両手の先から光のシャワーを降らせて回った。「せいや!」と亜空間を切り裂いたら拍手をもらい、軽く調子に乗って腕を火傷しかけた。「子供の頃、たまに小石とか草とか焼いてました」美波さんが言った。「近所の男の子なんかは、小さな虫を見つけて燃やしたりするんです。それがちょっと怖くて、でも、やめなよとかは言えなくて」