Ⅲ.朝焼け

 おおむね遊び尽くし、残るは線香花火のみとなったところで一旦休憩にした。飲み物を手に、並んでベンチに腰かける。すっかりぬるくなったカフェオレは甘さがべたついた。美波さんはカルピスのボトルについた水滴をタオルか何かで拭っている。ベンチのちょうど半分に木の影が落ちて、くっきりと明暗を分けていた。
「ああ、楽しかった」
「よかったです」
「いままで馴染みがなかったな、花火」
「子供の頃やらなかったですか?」
「うん」
いまいち喉が潤わないので、断ってミネラルウォーターを取った。影の中にいる美波さんをよく見ると、蓋を開けるのに苦戦している。
「え? 大丈夫です?」
「ああっばれました」下を向いてしまった。
開けましょう、と受け取ってスクリューを軽くひねって返す。私も水を開けて飲んだ。いまさら年齢とか聞いた方がいいのかな、などと一瞬考えたけど、やめた。
「美波さんは『花』とつくものが好きなんですね」
「え? あー! 確かに。お誕生日、花づくしにしてしまった」
「ありがたいです。いい日になった」
一帯の空気が静止し、ろうそくの火も消えた。はじめから何もなかったみたいに見えたけど、わずかな火薬の匂いが夢中の名残を留める。カフェオレをひとくち飲んで、もたつく口の中を水で洗った。
「眠くないですか?」
「ぜんぜん。眠くないです。テンション上がってるのかな」
「おうちは近いんですか」
「ここからだと電車ですね。実家なんですけど、まあ、大人なんで平気です」
「そっか。じゃあ始発までいましょうか」
「凪さんこそ大丈夫ですか? 無理しないでくださいね」
「まったく。私は抜け出してきたんで。夜が明けるのが惜しいくらいで」
「抜け出して?」
「そーです。世界から抜け出してここへ来ました」
言ってから、喉がぴりっとした。
「あーいや。やっぱ眠いのかも、気にしないでください」
私は両手で顔をごしごしこすり、頬をぎゅっとはさんだ。美波さんの視線につつかれた気がしてこそばゆくなったのだ。ほんのひといきの沈黙も、すぐさま気恥ずかしさで満たされいたたまれない。東の地平線に朝の予感がうっすらと見えだした。
「なんで、世界から抜け出したかったんですか?」
振り向くと、美波さんはまだ淡く沈んだ闇の中で、とてもやわらかい表情をしていた。私は照れ隠しに「あはは」と発声した。
「別に私なんかはたいした問題も抱えちゃいないんですけどね。なんか、なんかもうぜんっっっぶめんどくさくなっちゃう瞬間が、たまにあるんです。朝が来て、また今日一日自分をやらなきゃいけないのかって思ったらもう、死ぬほどめんどくさくなってしまう。時々。」
自分で呆れてしかたなく、あまり笑えなかった。隣からこくんと喉が鳴る音がして、つられてまたひとくち水を飲んだ。お腹がたぷたぷだ。
「別になんの問題もないんですけどね」だからこそ、逃げられない。「めんどがる病なんですたぶん」
「めんどがるびょう」
イントネーションが北欧神話のなにかみたいだ。この人の声はすてきだな、と思った。それきり二人とも黙った。

 私は前方をぼんやり見つめたまま、隣の彼女が何を考えいてるのか、第六感を働かせようと試みた。同時に次の一言を探していたけど、どちらも上手くいかなかった。すると美波さんが「私は時々、」と話しはじめた。
「眠れない時とか、ひとりで部屋にいたら、自分の見てる夜は、このまま永久に明けないんじゃないかって気がしてくるんです。世界中で自分だけが、もうこの夜より先には進めなくなってるんじゃないかって、怖くなります」
美波さんは半分ほど残ったカルピスのボトルを手の中で何度か弾ませてから脇に置いた。指先をこすり合わせてじっと見つめ、両手を組みあわせた。
「でも、妙に安らぐような気持ちにもなるんですよね。誰からも隠れて、護られてるみたいな」
夜空が何枚かめくられて、美波さんの姿がだんだんはっきりと見えてきた。さっき声をかけられた時、どうしてこの人が花屋の店員だと一目でわかったのか、ふと不思議に感じた。いま目の前にいる彼女は、昨日までの記憶の人とはまるで別の誰かに見える。美波さんが、自身の下腹部をそっとなでた。
「この子。父親いないんですよね。……迷ってて」
横顔はやわらかいままだった。彼女の奥に広がる風景のコントラストが薄れて、全体像がにじみ出てくる。夜が終わろうとしていた。居心地のよかった暗がりは、暴かれるのを嫌って地下深くへと逃げてゆく。
「同じ夜に、」
同じなんかじゃないかもしれない。彼女は簡単に『同じ』だなんて言ってほしくないかもしれない。でも私は嬉しくて、嬉しくて、思ったままの言葉しか口から出てこなかった。
「同じ夜にいたことがあります。私も。ひとりぼっちで、行き場がなくて、夜のまま時間が止まってた。私はそこで安心してました。進まなくていいと思ってた。でもそんなわけにはいかなくて、諦めて、押し流されて大人になりました。それでもちゃんと、私がいま美波さんと一緒にいるのは、今日は、明ける方の夜です」
体ごと、彼女の方を向いていた。私たちは鏡みたいにまっすぐ見つめ合った。
「無責任なことしか言えないけれど。一番だいじなのは美波さん自身がどうしたいかだと思います。何を選んでも、どんな理由であっても、あなたが納得してればそれが正解なんです」
事情なんて知りようもない。たまたま今夜すれ違っただけのあなたに、ただしあわせでいてほしい。ありったけのエゴを、だって他にしょうがねえだろって、私は完全に開き直った。美波さんはこころもち睫毛を伏せ、小さな声でひとこと「ありがとうございます」そう言った。

 バケツを片付けるのに、もう目を凝らさなくてもよかった。残った花火と誰も手をつけなかった二本のお酒をお土産にもらうことにした。送っていくと言うと、美波さんが素直に受けてくれたので内心ほっとした。
 公園を出て、斜めの位置に並んで駅まで歩く。自宅とは逆方向だがそれほど遠くない。夜は明け始めてからが急激に早く、朝空の色は対比でやけに白けて見える。だから嫌いなんだ。遠く彼方の空で、今しがた稼働を始めた歯車の音が鳴っている。駅前にはまだ他に人の姿はなかった。開いている店もないし、蝉の声も届かない。近くの道路を車が一台通り過ぎて、また静かになった。
「じゃあここで」
「送ってもらって、ありがとうございました」
「体だいじにしてください。」
美波さんはうなずいて、上りのエスカレーターに乗って消えた。

 部屋は片付いていて、ほとんど伽藍堂だ。カーテンを外した窓から無感動な朝日が入り込んでくる。飛び疲れたのか、昨夜の羽虫が台の上をよたよた歩いていた。私はまよわず平手を振り下ろす。「すまない」私は言った、おまえは私だったかもしれない。
 床は温くも冷たくもなかった。結局のところ人間は、自分で助かるしかないのだ。いつでも最後には自分の力で這い上がるよりほかない。今日もなんとかこの世界に、自分で自分を馴染ませる必要がある。今からでも少し眠ろう。次に目覚めたら、どこかへ花を買いに行きたいと思った。母の墓前に供えなくてはならない。


(完)