つばめ

「四苦八苦とは色んな嫌な目にいっぺんに遭うかのような印象であるが、もともとは仏教における」

教室の窓側の前から三番目の席、高埜智花はまっすぐな眼差しを教壇に向けている。現代文教師の高野和磨が黒板に漢字を四つ、書きつける。全部の線を『止め』で書く癖があった。
「生老病死」
やや背を丸め自身の内に向けたような喋り方で読み上げる。しょうろうびょうし、と智花も続いた。空気は震えない。
初夏の日差しに暖められた午後の教室は気怠く、智花以外の生徒は概ね退屈そうにあくびを我慢していた。机に突っ伏して寝息を立てる男子もいる。

高野先生。最初はただ「おなじ名前だ」と思って、それからなんとなく、なんとなく視界に入ると気にした。四月が終わりかけたある日、校舎の裏手で高野が珍しく背筋を伸ばして建物を仰ぐのを見かけた。智花は咄嗟に身を隠してしまう。様子を伺っていると、いままで生徒にも、他の教師の前でも見せたことのない気の抜けた顔で彼は言った。
「そこは良いかね?」
高野の視線の先にはツバメの巣があった。ぴいぴいと小さいのが何羽か啼いて、お母さんツバメがはいよと羽ばたいた。

授業を受けた放課後、国語資料室に入っていく高野を見た。資料室とは名ばかりの埃くさい物置だ。ラベルの褪せたファイルや、丸められた謎の紙、図書室から弾かれた本などが置いてある。滅多に開かれないその場所に、高野だけが時折立ち寄ることを智花は知っていた。足音をためらいながらそっと後を追う。
「先生?」
入口で声をかけると高野はガタガタッと大袈裟に驚いて振り返った。
「あ? ええと確か、三組の?」
「高埜です」
智花はそろりと、しかしまっすぐ高野に近づいていく。高野はわけがわからず自分に向かってくる生徒を眺めていた。そして抱きつかれた。高野は反射的に智花を突き飛ばす。
「う。す、すまん。いや少し落ち着こう、話があるなら聞くから……」
しりもちをついた智花を慮りつつ、確実に距離を取りながら努めて穏やかに話しかける。智花は突然、土下座した。
「好きです。わたし先生のことが好きなんです。先生、私を抱いてください」
「や……」背筋をず、と何かが走る。「……やめなさい。ともかく立って」智花のもとにしゃがみ込み顔を上げさせようとすると、彼女の頬に涙が落ちていった。高野はぎょっとする。智花は片手で器用にシャツのボタンを外し、高野の首に腕を絡ませた。
「いま大声を出したら先生が悪者になりますよ。でもそんなことしません。しませんから、お願い」
なぜだか百足が一斉に体中を噛んだ気がした。吐き気を、高野は、適切な感情でないと思い押し殺した。震える手でそっと智花の腕をつかみ、引き剥がす。
「いま起きたことは問題にしない。だから、二度と、こんなことをしないでくれ」
その目には汚物を見る嫌悪と、教育者としての無力感がにじみあって揺れていた。智花の体からゆっくりと力が抜けていく。やがて高野も脱力し、項垂れた。
「考えてくれ、色んなことを、色んな風に」右手で顔を覆う。「……君自身のために」
「ごめんなさい」智花はぽつと置き、それきり黙った。
高野は立ち上がり智花に背を向ける。もう何も言わず、彼女が立ち上がるのを待った。呼吸が冷めておとなしく服の前を閉じる気配。上靴の底がかすかに鳴って、緩慢に膝や手を払う音がする。しばらく辺りが静かになった。

二人は資料室を出て、鍵をかけた。智花が見上げる瞬間と高野が振り向く視線がぶつかった。その瞳を一瞬だけまっすぐ見つめて、また俯くと、智花は小さく頭を下げた。自分の教室に向かって歩き出す。
「気をつけて帰るように」
遠ざかる背中に力なく呼びかけ、高野も逆の方向に歩きはじめた。

とぼとぼと歩く智花の足取りが、階段を登りきった辺りから徐々に、早くなる。タッタッタッ、走りながら智花の顔が、ニ、ニ、ニタァと笑っていく。背筋を走る快感のおぞけにがちがちと歯が鳴りだす。歪んだ形と、音と、熱い呼気を握りつぶすように口許を押さえた。股の間がにわかにぬるりと摩擦を起こす。
「五蘊盛苦!」智花の心に住んでる小鳥が囀った。二次性徴より前から私はマゾで、絶対に手に入らないものがいちばん好き。