I.深夜帯

 羽虫よ。
 おまえはこの世界に属している。私はずっとこの世界と戦ってる気でいたから、昨日までなら迷わずおまえを叩き潰していただろう。だが今日はいい。今日はどうぞ、好きに振る舞うがいい。

 そいつは平然と私の右目に突っ込んできた。おかげで台に乗りかけた右足を踏みはずし、そのまま思いきり床にすっ転んだ。痛い。右側面がまんべんなく痛い。大声で叫びたい、怒りと悔しさの全力を、喉ではなく顔中に寄せるしわにねじり込んでなんとか堪える。時刻は午前零時を回っている。
 転がったまま、何を思おうか考えた。
 部屋は片付いていて、余計なものが刺さらなかったのはいくらかましだ。じんじんする患部を冷やそうと、自分の体温でぬるまってない床を求めてずり這う。羽虫はどこかへ消えた。食いしばった歯の隙間から、強く息を吐く。このうえ泣きでもしたらあまりにも馬鹿みたすぎる。体を動かすと心が動きそうなのであとはじっとしていた。一定の、単調な、出所のわからないかすかなうなりが絶えず耳障りだ。
 そうしていると、このままではやがて朝が来てしまうことに気がついた。
「起きなくては」私は声に出して言う。
「立ち上がらなくては。」
いつもただすべての面倒から逃げていたいだけだった。かの有名な七つのうちのひとつ、怠惰の悪癖がずっと私の人生のテーマだった。

 錆びの浮いた自転車に久々にまたがり、踏み込む。右足首を少しひねっていたが動かせないほどじゃない。進むたび痛みが現在地をマークする。八月最初の夜。風もなく蒸していたが、スピードに乗ればさほど気にならない。明かりの消えた家々の外壁に、チェーンのきしむ音が当たって跳ね返ってくる。座る前にサドルを拭かなかったのを思い出して顔をしかめた。途端、ハンドルを握る手のひらまでざらつきが気になりだして、耐えきれずズボンの腿の部分で片手ずつ拭った。どうせもう汚い。

 子どもの頃、眠れない夜に、こっそりと抜け出して家の前の道路をよく眺めていた。ひたすらまっすぐに横たわる広い二車線道路。自宅を背に左に行くほど暗く、右手すぐには大きな倉庫があって、人がいなくても一晩中ライトが点いていた。その先に信号機と横断歩道があった。のっぺりとくすんだ風景の中で、まるく浮かぶ青信号が鮮やかに映える。あるとき思い立って歩行者用信号機のボタンを押しに行った。昼間には見慣れたはずの道がずいぶん不気味で、それでも誘惑に抗えなかった私はサンダルを脱ぎ、足音を抑えてひたひた走った。変わる黄色も、赤も、煌々ときれいだった。それを見て私は胸いっぱいに空気を吸い込んだ。家の脇に立った古いカーブミラーを覗いてみるのが好きだった。うっかり自分以外の何かが映りそうで、ちらっと覗いてはすぐ逃げる。めったに車が通らないのをいいことに車道の真ん中に寝そべることもした。うつぶせになってセンターラインに片頬を乗せると、路面が広く視界に入る。蟻とかが普段見ている景色はこんなだろうか、そう思った。アスファルトは日中の気温をしっかりと蓄えて、季節によって私のお腹を温めたり冷やしたりする。ごろりと寝返りを打って、一面の夜空を布団のようにかぶった。緊張感で手足の先が終始しびれていた。勇気をふりしぼったつもりでも、実際は一分も道路と一体になってはいられなかった。
 夜はシェルターだ。写真のように時間と空間が世界から切り離されて留まり、私は存分にひとりだった。夜という場所が、幼い孤独を肯定してくれた。

〈凪。それはね、なんでもないことなんだよ。〉

夜空は宇宙と同じ色をしている。星は遠すぎて、月はみずから輝かない。この世界のしくみはさみしい。身体も、時間も、感情も、人間のしくみは本当にめんどくさい。私は今日で三十になるというのに、いまだにあの夜のシェルターに身を潜めたままだ。