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炎天下

山間にある工場に勤めてもうすぐ一年になる。世間はお盆休みが近く、今日も最高気温が35℃を超えた。
「ジュンペイ、昼行ってきな」
「はい!」
入社したとき先輩に同じ苗字がふたりもいたので、自然とみんな下の名前でおれを呼んだ。
食堂で弁当を食べ、紙コップで冷たい緑茶を飲みながら窓の外を見た。裏手の地面にくっきりと濃い影が落ちている。
「なんだあれ」
「どした?」同僚が尋ねた。
おれは外を指さす。「ほら…あれ?」
何もなかった。陽炎でも出てたんだろうか。

仕事を終えて帰宅する。アパートの前で鍵を探してると、ふくらはぎのあたりがふと涼しくなった。足元を見ると、もやもやした変なかたまりがいる。おれはびっくりして飛び退いた。
「わっなんだこれ」
「わんわん」
中型犬、みたいだが。透けてる? やけにのんきな顔で緊張感に欠けるやつだ。手を伸ばしても、なんの手応えもなく素通りした。
「もしかして、犬の幽霊か?」
「わんわん」
……無視して家に入った。
「おいおい!」
閉めた玄関のドアからにょっきり犬の首が生えた。迫力のない剥製みたいになっている。平気な様子でドアをすり抜けて、おれもすり抜けて奥へ行ってしまった。
「勝手に入んなよ」
そのままローテーブルの下にすっぽりおさまり、前足にあごを乗せた。子供のころ飼ってた犬のことを思い出す。ある夏の日、庭に迷い込んでそのまま家族になった、まぬけ面した野良犬だった。
「しょうがねーなぁ」
冷蔵庫にハムがあったので見せてみた。幽霊犬は鼻をくんくんさせてから、首をかしげてへっへっと言った。ハムはおれが食べた。
「どこでも入れるし、飯もいらないんじゃ、幽霊も案外悪くないかもな」
お手、と手を出してみたが、ただ笑ってる。

次の朝目を覚ますと、そいつはまだいた。ベッドの脇をうろうろしながら見つめてくる。おれは気怠く寝返りを打った。今日は休みだ。
「なんだよ、散歩ならひとりで行ってくれよ。出入り自由なんだから」
「わんわん」
まあ、どうせ一日中ごろごろするだけだし。反動をつけて、起き上がった。
外に出るとぶわっと熱気が押し寄せてくる。雲ひとつない空の下を半透明の犬がてこてこ歩き、尻尾がふさふさ揺れている。乾ききった畑を風があおった。少しするとコンビニが見えてきた。文明にあやかりたい。
「おい、わんこ」呼ぶと素直に寄ってきた。「ちょっとここにいな」
おれの指さしたあたりに座った。話が通じてるんだろうか。目線をあげたところに貼紙があった。おれはしばらくそれを眺め、スマホで撮影した。急いで買い物して出ると、わんこは同じ場所で利口に待っていた。
「行くか」
「わんわん」
幽霊は暑さや疲れを感じないのだろうか。家を出てから、一定の速度で歩き続けている。

真昼を過ぎたころ、山道の入口付近にたどり着いた。見上げた山から薄暗い湿気が吹きおろす。息を整え、汗をぬぐって帽子をかぶり直した。わんこがすっと横の林に分け入った。おれも後に続いた。草木を慎重に避けながら歩いている。五メートルほど奥まで行くと、やつは立ち止まって振り向いた。
「わんわん」
おれは触れないわんこの背中に手を添えるようにして、しゃがみこんだ。背の高い草に埋もれた何かに大量のハエがたかっている。あばらにこびりつくぐずぐずの肉をかじる黒い虫を見て、スポーツドリンクを吐いた。
「おまえなのか」
わんこはくりくりした目でおれを見ながら、舌を出してへっへっと言った。
「そうだよな。幽霊だもんな」
近くの木の根に腰をおろした。熱を吸い込んだ体のそばに、ひやりと心地よい感覚だけが寄り添う。おれはスマホを取り出し、調べて電話をかけた。
「山道の、わきの林に少し入ったところです。住所は……。あと。たぶん、その」声がふるえて、うつむいた足元がぼやけて見えた。「確認して、連絡してもらえますか。いまも探してると思うんで」
コンビニで見た貼紙の迷い犬は、わんこにそっくりだった。青い首輪には下手くそな字で『ジュンペイ』と書いてあった。
林を出て、ひとりの帰り道、おれはひとしきり泣いた。