凱旋
だだっ広い草原は、一周見渡しても始まりも終わりもなかった。遠くの太陽はぼんやりと白く曖昧に明るい。時折音もなく風が渡った。
高い塔があった。
地上から天辺はなんとなく見えない。視界に収まらないほど高いようでもないのだけど、おそらく意識の方に霧がかかって認識できない。塔は冷たい石を積み上げられて建っていた。入口はない。
入口はないようだ。入口はない、
私は満身創痍であった。
裏側に回ると木で出来た厚い扉があった。しかし板を打ちつけられそれは固く閉ざされている。木の肌は黒ずんでささくれ、触れるのも躊躇するほどだ。
やはり入口はない。ただ扉の下の方、わずかにひずみかけて石が崩れている箇所があった。私は力まかせに石を踏みつける。足が痛いだけだった。頭に血がのぼって扉を拳でぶっ叩くと、ささくれで擦れて傷がひとつ増えた。だから一度その場に倒れた。
ずっとずっと遠くから、音の予感が聞こえた。何者かがやって来る。かすかな恐怖が脊髄を走って冷えた。顔をしかめて起き上がり、軽い動作で四肢の動き方を確認する。ゆっくりと息を吸いながらひずみかけた石の隙間に指を差し込む。努めて力を抑制しながら引くと、石はじわじわと転がり出た。
屈めば通れそうだ。私はこの塔の主人であったので、中に入った。
塔の中は暗く、ねじれながら上昇を続けるねじれ上昇階段の他には何もない。がたつく石の隙間から時々とても細く短い光が届く。階段を上り続ける。疲労はあまり感じない。大きな音の鳴らない靴底でよかった。
時間の感覚もねじれる仕組みのためどれだけ上り続けたかは不明瞭だ。屋上に着いた時には夜になっていた。星の光はたよりない。遠く地平線に近い空ほど暗く、耳を澄ますと世界が墨のような夜に沈む《とっぷり》という音が聞こえたので少し笑った。
と、同時に足音が聞こえた。ざっ、ざっ、ざっ、ざっ。二足歩行の少数による統率された足音だ。しかもその小さな集団が三つほど、それぞれ別の方角からやってくる気配がした。
屋上はそれほど広くない。今しがた出てきた階段に通じる穴の他には物もない。とにかく端まで行ってみる。走りかけ、思い止まり、靴を脱いで手に持った。
外周部には胸の高さくらいまで柵状に石が積まれていた。体を預けすぎないようにそっと下を覗く。いくつか、暗い中で蠢く影があった。少し前進して、留まる。少し前進して、留まる。細部は視認できないが、彼らの立てる音がだんだんはっきりしてくる。塔の足元まで近づいていた。
私は胸壁の影に身を潜めた。彼らは何者で、いったい何の目的があってここへ向かっているのだろう。面倒だ、と思った。ただそう思った。怒りや恐怖を覚えぬよう自分自身を鼓舞し、草原をゆく者の動向に意識を集中させる。
ちらちらと星が光る音で気がついた。意識が飛んでいた。それほど長い時間じゃないだろう。まだ全くの夜であり、辺りの音が消えていて夢のように静かだった。そこは暑くも寒くもない。だが体は冷やされたように精神と別物だった。
もう一度しばらく耳をそばだててから、骨が軋まないように身を起こす。中腰で目だけ出して外を見た。先程こちらに進行していた集団は、一ヶ所にまとまって動きを止めている。見ていても再び動き出しそうな兆しはない。彼らにも休息が必要なのかもしれない。ここは安全か。自分に問う。
ここは安全か。
私は疲れていた。脅威がなければもう少し眠りたかった。中腰のまま胸壁に沿って周り、ところどころ地上の様子を窺う。他にも三点ほど似たような集団の留まる様子が見てとれた。誰ひとり火も焚かず、身じろぎもせず。下にいた時は気付かなかったが、封鎖された扉から舗装された道がずいぶん遠くまで伸びている。吐き気がした。
「驕るなよ。人間如き、たかが二つ脚の獣ではないか」
とにかく一周して、壁に背を預ける。そのままずるずると体を横たえた。眠い。冷たい石は肌に心地よく、このまま眠っても死ぬ気はしない。唐突に理解した。私は王である。
ここは安全だ。
下になった腿の外側に何かが当たる。そちらのポケットを探ると煙草の箱が入っていた。吸うなら朝にしよう。今は暗すぎる。脱いだ靴の中に煙草の箱を差し込んで、同じ姿勢に戻り、目を閉じた。
目を開くと既に日中だった。見上げた空はいくらか青みが強く平板である。太陽はやはり白く、輪郭が淡くにじんでいてやけに遠かった。景色の明るさに目が痛む。私は舌打ちをした。
体を起こして軽く伸ばす。寝起きは不機嫌極まりない。理不尽を百も承知で、なんでこんなところにいなくちゃならないんだ、と思った。覚醒が体に染入るとそれもどこかへ消えた。
煙草を吸おう。そう思いついて四つ這いで煙草をしまった靴へ向かう。箱を開けると10本ばかりの煙草と、使い捨てライターがひとつ入っていた。黄色か、紫か、ピンクの。ラッキーだ。煙草がいっぱいに詰まっていたなら中にライターはなかったのだ。他に持ち物は何もなかった。私はいつも自分の巡り合わせの良さに畏怖すら覚える。一本取り出してくわえ、火を点けた。胸いっぱいに煙を吸い込むと爪や髪の先まで香りがゆきわたる心地がする。空腹も紛れる。喉に繋がる管すべてからしっかりと煙を吐き切ると、むしろ肉体的には清涼と感じた。とてもおいしかった。薄荷だ。
しばし味わい、灰をどうしよう、と思う。そっと地上の様子を確かめると、昨日と同じ場所で、謎の集団が座り込んだままごちゃごちゃ話をしている。それを盗み見つつもう一口。なるべく低さを保ったまま、腕をそっと塔の外に出して灰を落とした。
彼らは何者か。あるいは何者かであるのかどうか。何を話しているか当然ここからは聞こえない。しかし表情は目を凝らせば割にはっきりわかりそうだ。私はもう少し身を乗り出して、胸壁にもたれてしばらく彼らを観察した。
西洋兜の奴は小さく膝を抱えて「小遣いが少なくってさぁ」みたいな顔して口を尖らせていた。隣の同胞はにやにやしている。三角笠の奴らは粗末な槍を持ち、横一例に並んでぼうっとしていた。目が何にも見てない。その中の一人が時折、空いてる方の手で自分の口元を触るしぐさをする。人差し指と中指の先。あいつたぶん煙草が吸いたいんだ。
そう思うとついふんと鼻を鳴らしてしまった。吸い切った煙草を内側の壁でよくもみ消し、迷ったが、すぐ下の壁際に置いた。
どの集団もこちらに向かって来てはいたものの、どことなくこの塔の存在を感知してない風だった。一応言われたんで来ましたけどぉ、特に興味もないし、それらしき目標物もないしさぁ。困ったなぁ、どうすんのこれ? 責任者誰よ?
いくらでも踏み荒らせばいい、私は思った。君らが歩ける範囲ならいくらでも明け渡そう。余力は乏しい。足下に積み上げられた冷たい石が、持てる資材の全てであった。なればこそ死守だ。この塔にさえ触れられなければ構わない、他の土地は好きにすればいい。
見渡す限り花ひとつ咲いていない、実につまらない草原だった。煙草を吸い終えるともうやることもなくなってしまう。いくらなんでも間が持たない。煙草は1日1本にしようと決めた。1日とはつまり、一度ずつ明るくなって暗くなる期間のことだ。
太陽は浮かんでいるが常に同じ場所に留まっているらしい。地も天も、動いてない。だから次に暗くなるのがいつなのか全く予想がつかなかった。漫画とか読めるといいな、と思った。一度眠って、目が覚めたら漫画本が何冊か積まれていたりしたらいいのに。ここは退屈だ。安全であるというのは、別の視点から見れば退屈なのである。
籠城。
要望通り漫画本が何冊か積まれている日があった。色んな漫画の色んな巻が。ばらばらだ。文庫本も何冊か混じっていた。ご丁寧に全てカバーを剥がされている。
漫画を一冊取ってぱらぱらめくってみる。一応読み進めてみるけれど、なんだか読んだ瞬間から記憶が砂粒になって消えていく気がする。あまり時間つぶしにならなかった。文庫本に至っては、目を通した行から次々と文字が黒い砂になって散ってしまう。白紙にするのもしのびなく読むのをやめた。まとめて壁際に押しやると、次の日には目に見えてぼろに朽ちた。私が飽きたからだろう。まもなく風化していく。
最初の喫煙以降、ここでは別段腹も減らなかった。肉体や空気が温度を抱えている感じがしない。質量のようなものはある、でもそれをあらしめているのはおそらく重力ではない。その場所で唯一煙草はうまかった。煙が内側から全身にしみわたる感覚によって、自分がとりとめのないさまざまを半ば無理矢理にたがでまとめたひとかたまりであることに大いに納得した。
地上を見ても、大きな変化は何日も起こらなかった。まだ少年といえる体つきの者が3人無邪気に駆け回って遊んでいた。ひとりがずしゃ、と転ぶ。残りの二人がずしゃ、と止まって振り返る。転んだ奴が起き上がり、3人揃って大げさに笑いまた駆ける。楽しそうだ。別の場所では無関係の大人が穴を掘っていた。好きにすればいいとは言ったもののあんまり変なものは埋めないでほしい。日除けのつばの大きな帽子を被った女が、草の上に腰をおろしていた。傍らに大きなキャリーバッグ。こんなしょうもない草地に赴く格好ではない、すらりとしたドレス。私は今日の煙草に火を点けた。
黙って吸っていると、ドレスの女がまっすぐにこちらを見た、ように見えた。私は驚いて彼女を見返す。1… 2… 3… 確かに目が合っている。表情からは何の感情も窺えない。知らない女性だ。でもきれいな人だった。5… 6… あれ?どうすればいいんだっけ?
これは空想だ。私は頷くと同時に意識して一度しっかりとまばたきをした。顔を上げると彼女の視線が少しだけ右に外れていて、あとは何事もなかった。
一度昼が夜に変わるのを見たくて待ったことがある。その日の煙草を吸ってしまって、ひと通り監視にも飽きると屋上の真ん中に座って空を見上げた。ひたすらぼおっと眺めていると遠くの方からざざ、じわじわ、と音が聞こえてきた。いくぶん高揚して端まで行く。すると地平線のもっと先から淡い暗みが根を張りだすのが見えた。(じわじわ)根の進行に合わせて(じわじわ)薄暗みが何層にも空全体に重ねられていく。夕焼けはなく、青がそのまま濃く夜の色になった。だんだんと根のシルエットが暗さとなじんできて、成分の濃い液体が水に混じるように手を伸ばす。ちらほらと星が、臆病な小さい獣みたいに今がどれくらい夜かを確かめようとじわりと顔を出しては依然警戒を解かずに各々光りはじめる。
ちか、ちか。
夜の到来に心が安らいだ。
ある日突然、私は飽きた。
ここにいてもしょうがない。ここにいる事と、ここにいない事には何の違いもない。何にもならないのだ、そう思った。私は再び屋上の穴から階段へと踏み込んだ。
ねじれ上昇階段は、ねじれ下降階段だった。上る時より降りていく方がずっと怖かった。やがて呼吸が浅くなり足がすくむのを感じる。《やめようか・やっぱりやめて戻ろうか・か》手すりはなく、壁についた手が震えて滑りそうになる。歯が噛み合わなくなりはじめているのを必死に誤魔化して鼻をすすった。もう一人の私が耳元で囁いた。《引き返すなら早いほうがいい》私は言った。《わかってるよ》腹が立つ。言うのは勝手だ。私は全身をこわばらせ、落下しないよう一歩ずつ踏みしめて進んだ。
足下を照らす要素もほとんどなかった。眼球に力を込めてなんとか情報を得ようと試みながら、つま先で探って次の足場を見つけては下る。私は王である。しかしいざ下降に転じた際に、それでも塔が味方でいてくれるかは与り知らぬことであった。怖かった。暗くて、狭くて、落ちたらすごく痛そうだから怖かった。ここまでどれだけ下って来てあとどれくらい続くのか、推し量る材料もない。時間が静止しているみたいだった。もし本当は、少しも降りてなんかいなかったら? いくら進んでも、この先に降りるべき場所なんてなかったら? そう考えてしまったら、いよいよ怖くて叫び出しそうになる。座り込もうにも安心して腰を預けられる面を捉える自信がない。頭の中のパニックを肉体に伝達しないよう体中の筋肉を固くして耐えた。「大丈夫、大丈夫だ」そう自分に言い聞かせる。どこかで覚えたカウントしながら行う深呼吸を何度か繰り返した。大丈夫だ。行くしかない。行くしかないのだ、私は降りると決めてしまった。
終わりは唐突に訪れる。そこが底だと、地面を踏んだ瞬間にわかった。それまでの行程と五感のどれか何が違ったわけでもない。ただわかった。だから両足をその場に揃えた。それでも念のため手の届く壁と、片足ずつすべらして地面の続く範囲を確かめる。本当に底だと理解した時、ようやく詰まっていた喉から腹の中の空気を全て吐き出した。改めて少し震える。とにかくいったん壁に寄りかかって座った。まるで剣を携え大きなドラゴンでも打ち倒したような心持ちだった。安堵をスイッチに、胸の奥からばくん、ばくん、と音が鳴る。あんまりはっきりと大きく響くのでちょっと驚いた。なんだ、私は心臓を持っているんじゃないか。
落ち着いて、実体の不可侵を取り戻していく。狭い階段を回り込んで壁を観察し出口を探す。少しだけ大きな隙間、初めに侵入した穴らしき場所はまた塞がっていた。漏れ入る光は日中だ。遠慮なく押し出すと、辺りの石は案外たやすく崩れた。体をすぼめて外へ出る。
外の光が目を刺し、慌てて目を細めた。被った小石や土埃が気になり少し体を揺する。目が慣れてきて、立ち上がる。緊張でくたくただ。届く限りを見渡しても草原にはもう誰もいなかった。少し離れて振り返ると、塔の上空にぽっかりと小さな雨雲がひとつ浮かんでいる。そこからさんさんと雨が、ちょうど水柱のように塔だけをめがけて降りだした。私はそれをもの珍しく眺めた。雨はしばらく降った。
煙草の箱を取り出す。最後の一本だった。雨の匂いが鼻をかすめて、煙草の箱をひねり潰して試しに火を点け塔に向かって投げてみた。一気に引火する。石で出来てるくせに、塔はよく燃えた。めらめらめらと美しい音色。めらめらめら、ぼうぱちぱち。赤くてそれは、ここへ来て初めて見る鮮やかさの暖色だった。そして火は冗談みたいに大きいのだ。それらの光景はどうしようもなく、私の中の笑覚とでも呼ぶべきところをくすぐった。
「ふっふっ、くくく」
「くふふ、ふふ、あっはっは」
むきだしの顔の皮膚が熱かった。一度理性を整えて、手にしたままだった煙草に火を点ける。指が震えている。振動が余計に自分を急かした。一息深く吸い、意識のぶれが収まると反射的にライターも炎に放り込んでいた。もう使い道がなかったから。小さな爆発。宇宙を連想した。
「うはっ、あはははははは」
私は笑った。きっと私の瞳も赤く燃えていたのだと思う。興奮状態で煙草を口にする。呼気が強いぶん反動でひと吸いが奥まで入ってくる。温度差がごうごうと辺りの風を巻き上げ、それでまた吹き出しそうになった。風よけのために親指と人差し指で煙草をつまんで手のひらで覆うようにして持つ。
「うふふふふ、あはは、あーっはっは!」
あははははいひひひひふうふうふう、
私は笑い続けた。腹を抱えては笑い、のけぞっては笑う。右手の煙草をどこかに置けないのがもどかしい。笑って笑って、笑ってえずきかけながら笑って、笑って泣きながら笑って笑いながら笑って泣きながら笑いながら泣きながら泣いた。笑って、げほごほとむせた。空いた手を膝につき、ひい、ひいと喘ぐ。煙草を口の端に戻し荒い呼吸を繰り返しながら、怪我をしないようゆっくりしゃがむ。その間もずっとくわえ煙草と逆側の端から、ぐふっ、ふふふと音が漏れていた。
そのまま胡座をかき見上げる。
未だ燃え盛る塔。ばかでかい炎は気の触れた怪物みたいだ。原始の舞踏か、威嚇、おちゃらけてもいるようで、畏敬の念は滑稽さとすれすれでゾクゾクする。ほんの刹那中指を立てたようにも見えた。そんなばかな! 私は両目を見開いた。愛してると思ってしまった。最もやわらかく、絡み合う糸の中心の、極限まで小さなポイントを寸分違わぬ正確さで捉えてくる。燃える弾丸が笑いのツボを、火矢が私のハートを撃ち抜いた。私は衝撃でひっくり返った。ひっくり返って、手足をジタバタさせて笑う。魂が炎に包まれる。
《うあは!ううー、うああははっ》
もはや笑っているのかどうかもわからない声が出た。体を自由にするためにくわえっぱなしの煙草。煙が目にしみる。目のきわからなみだのつぶがこぼれ流れた。それがもみあげを伝って、耳の内側が湿る。気持ち悪さにまたうふふと笑う。それ以上水分を押し込まないように、慎重に指先で音の入口を拭った。音の入口を、
頭がふわっとした。脳への刺激が許容量を超えたのだろう。涙はもう幾筋か流れ、私は穏やかに笑っていた。
これでお終いだ。
私はもう眠らずに、燃え尽きた塔が崩れて下敷きになる前にここを出ていく。踏み荒らされたつまらない草原の外にある世界へと。
既に半分の長さになった煙草を、フィルターぎりぎりまで丁寧に吸い切った。激しい音と熱気、オレンジ色の光がずっと間近で照らしていたけれどもう怖くはなかった。この場所のことはだいたいわかっていたから。最後の一本はとてもおいしかった。未練もない。
それから立ち上がり、吸い殻を炎に向けて指ではじいて捨てた。がら、と内部から、かすかに何かが崩れ出しそうな気配がした。念入りに髪を払い、ズボンの尻の土を払い、上着を脱いでばさばさと払いまた羽織る。それから塔に背を向けて歩き出す。舗装も目印もないところを、ただまっすぐ前を見て歩いた。