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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。

100カノ118話〜119話

118話〜119話が肌に合わない理由を考えた結果です。基本的にどちらも「作品から読み取れる作者の価値観を受け入れがたいから」と結論づけました。
例えば93話(眼鏡回)で「とんだセクハラ上司だ」と言う胡桃に「でもオールボーイのドリームデース」と返すナディー先生の台詞。胡桃の台詞もナディー先生の台詞も作者が考えていますから、作者の主張は「羽々里さんの行動は上司としてはセクハラだが、オールボーイのドリーム(全ての男子の夢?)である」と読めてしまいます。女性(から男性へ)のセクハラに肯定的すぎませんかね(このコマは台詞の順番を入れ替えれば「羽々里さんの行動はオールボーイのドリームだが、上司としてはセクハラである」と批判をもっと強調できたのにな……)。

118話「さらばナディー語よエターナルに」
様々な方が指摘していますが、現代先生の主張が真っ当なので注意を撤回させようと奮闘するファミリーが独善的に見えてしまいます。ファミリーにも短所があるのは当然ですが、この話はそれを美徳のように描いているから釈然としないのかなと思いました。

119話「もみフェス(第二部)」
作者が想定していた読み方はおそらく、
1.いきなり詩人の胸を揉む恋太郎という図に驚く
2.(紅葉ちゃんin)恋太郎に胸を揉まれた彼女たちの反応を楽しむ
3.恋太郎in紅葉ちゃんの登場で真相を知って納得する
のようなものだと思います。気になるのは2.も3.です。

まず2.について。初読時に認識する彼女たちの状況は(一部を除いて)「他人に勝手に胸を揉まれた」です。その他人が恋人とはいえ痴漢に遭っているようなものですが、作者はこれを(同意していた一部と同様に)サービスシーンとして描いています。後に実は彼女たちも胸を揉まれることに同意していたと(言い訳がましく)描かれますが、作者がこう読んでほしいと考える演出と状況から想起される感情が食い違っていることは変わりません。非常に乱暴に例えると、虐待シーンが家族のふれあいとして描かれているような違和感を覚えました(虐待にまで例えてしまったのは私がファミリーの性的欲求に共感できないからだと思います)。

次に3.について。1.の勝手に彼女の胸を揉むという恋太郎らしからぬ行動の原因として作者は人格の入れ替わりを提示していますが、それでも紅葉ちゃんが同意なしに他人の胸を揉むという社会的によくない行動を悪いこととして描けていません。
ある行動を悪いこととして描く、とはその行動が社会的によくないと作中で指摘するなどして「作者の」理解を示すことです。41話(媚薬キス回)で体が火照ってきたからと服を脱ぐ羽々里さんに羽香里と唐音が服を着せたシーンのように、「この淫行教師」という台詞によって羽々里さんの脱衣が社会的によくない行動であると作者が理解していることが示されています。
今まで紅葉ちゃんが同意なしに彼女たちの胸を揉む行為は悪いこととして描写されてきませんでした。この話でも紅葉ちゃんは彼女たちに何も告げず胸を揉み、制裁は与えられません。前述した彼女たちの内心はあくまで読者に向けて描かれたものであり、紅葉ちゃんの視点で彼女は他の彼女たちの同意を得ずに胸を揉んでいます。この内心の描写は彼女たちが制止する声を「そういうプレイ」に落としてしまっていて残念です。
また「真剣に感触を味わっていただけ」という台詞から、彼女に自分の行動が社会的によくないもの(ぼかさず言えば性犯罪)であるという認識がない可能性すらあります。当たり前ですが架空の人物である紅葉ちゃんの認識には作者の認識が反映されます。「親しかろうと同性だろうと同意なく他人の胸を揉むのはよくない」という当たり前の感覚を作者が持っていない(ように読める)という価値観のズレが私にとってこの話を受け入れがたい理由だと言えそうです。
今後紅葉ちゃんが彼女の胸を揉む描写そのものをなくすべきとは全く思っていません。しかしそういった描写を行うなら、70話(もみフェス第一部)での愛々ちゃんのように揉まれる彼女の同意があることを示すか、ない場合は勝手に揉むのを悪いこととして描くべきでしょう。